三、歩むべき道を求めて
浄土宗布教師会関東地区支部 柴田 哲彦


 今から三十余年程前のことであった。東京上野の国立博物館において、数ある法然上人伝記の中の白眉と称される、知恩院蔵、国宝の『法然上人行状絵図』すなわち『勅修御伝』(以下『勅伝』)が全巻すべて出品される展示会が開催された。それは浄土宗開宗八百年という佳辰に合わせた企画であったと記憶している。周知のごとく『勅伝』は『四十八巻伝』と呼称され、四十八巻から成る大部な法然上人伝記である。目測ではあるが一巻の長さが約一〇メートル。全巻単純計算すると約四八〇メートル、さすがに広大な国立博物館も、全巻五〇〇メートルになんなんとする浩瀚こうかんな絵詞伝を一回では展観できなかった。二回に分けた展示会に二度足を運んだことを記憶している。
 そのようにして『勅伝』全巻を見る機会を得たのだが、その厖大な『勅伝』の絵詞の中で、特に衝撃的に心に強く刻まれた場面があった。それは冒頭一巻の「夜討」と「父臨終」の場面であった。
 上人の父時国は押領使おうりょうしなる要職にいたが、同地域の預所あずかりどころ、源内武者定明から遺恨をうけ、保延七年(一一四一)に夜討をかけられ、それによって絶命することとなった。その、今際の時、幼い我が子法然上人を枕許に呼びよせ、そして告げた言葉が記してあった。その場面を『勅伝』第一巻では、
汝更に会稽かいけいの恥を思い、敵人を恨むることなかれ。(中略)もし、遺恨を結ばば、その仇世々に尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」…。
(聖典六・一一)

と記している。
 さて、話は現代に戻るが、一昨年(平成十六年)九月二十四日刊の『朝日新聞』投書欄に、大阪府枚方市のある主婦からの「報復の連鎖を断ち切る知恵」と題した一文が掲載されていた。短文なので全文紹介しよう。
この夏、友人から届いた手紙にこんな話が書いてありました。
 平安時代の末期、美作国の豪族、漆間時国は夜討ちに遭い瀕死の重傷を負いました。死の床へ九歳の息子を呼んで次のような意味のことを言いました。
「絶対に敵討ちをしてはならない。おまえが親の敵を憎んで殺せば、相手の子もまたおまえを憎み刃を向ける。生々世々殺し合いが続いてしまう。おまえは出家し、修行に励みなさい」
 息子は従い、父の菩提を弔い、敵も味方もなく、ともに救われる道を求めて尊い宗教家になりました。浄土宗の開祖、法然上人です。世間では周知の話かもしれませんが、私は初めて知りました。
 自爆テロ、それに対する報復戦争、またそれに対する報復テロと、ここ数年、世界各地で凄惨な事件が起こり、どんどんエスカレートしています。「暴力と報復から決して平和は生まれない」という当たり前のことを、今こそみんなで真剣に考えたいと思います。
という文章であった。文面からは『勅伝』に記す、幼少期の宗祖法然上人に対する父時国の遺誡、そして、その遺誡の根底にある深い真理に、心の底から感動を覚えたことが痛いほど伝わってくる。一宗の教師という立場にいれば、上記内容は極く常識的内容として看過されがちである。しかし二十一世紀に生きる現代人はほとんどそのことは知らず、しかし我々教師にとっては単なる常識と考えていたことが、実は大変な感動を呼び覚まさせることであることを教えられたのであった。
 元来釈尊によって開示された仏教教理の中には、この怨憎・瞋憎に対して大きなウエイトが置かれている。それは、いわゆる四諦の教理の中の苦諦、そして開いて、四苦八苦の教説すなわち、生・老・病・死の四苦にさらに、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦を加えた「四苦八苦」である。
 人は生を受けると共に、この四苦八苦は付帯してくる。諸行無常の道理から特に愛する対象が生じれば確実に別離が訪れるのだ。この別離が人為的な死によって到来した場合、極めて大きな激しい怨憎会苦が生じてくる。
 釈尊の教えは記憶し易いような方策として詩句で語り継がれた、というが、その詩句を釈尊死後のかなり早い時代に集録したものが『法句経』(奈良康明氏『法句経』友松圓諦訳、解説)と称される。その『法句経』に、
  まこと、怨みごころは
  いかなるすべをもつとも
  怨みをいだくその日まで
  ひとの世にはやみがたし
  うらみなさによりてのみ
  うらみはついに消ゆるべし
  こはかわらざる真理まことなり
   
(講談社学術文庫679・一四)

と、怨憎を捨てなければ真の安穏は訪れないことを釈尊は説示している。しかし説示をいざ実行するとなると大変むずかしい。『ハンムラビ法典』にある有名な言葉「目には目、歯には歯」に帰納していくのが自然であろう。また釈尊とほぼ同時に活躍したと言われる中国の老子、その老子の語録とされる『老子道徳経』すなわち『老子』にも、
  怨みに報ゆるに徳を以てす 
(『老子』金谷治、講談社学術文庫1278・一九四)

の文章が見られる。この書物が後世日本に与えた影響も少なくはない。延応本『選択本願念仏集』に平基親の作と伝えられ、今日見ている『選択集』序文に老子の尊称である「玄元聖祖」、そして『老子』を意味する『五千言』等、記載されているのを見ても、法然上人在世前後には仏教のみならず中国からの思想も受容されていたのであろう。
 そのような精神的背景の中で父時国の遺言が子に告げられていったものと思われる。
 さて、しかし幼い九歳の少年であった法然上人にとって、もっとも親を必要とする年齢であり、その年齢で父とは死別。しかも人手にかかった最期、怨念をともなった愛別離苦であったであろう。母親は比叡山登嶺を決めた上人を前にして、
  形見とて はかなき親の留めてし この別れさへまたいかにせん
(勅伝一/聖典六・一六)

と心情を歌にたくしているが、母子双方の別離の心の痛みが止めどなく伝わってくる。この別離以後、母子があい目見えた正確な記録はない。
 以後法然上人は承安五年四十三歳になるまで、基本的に比叡山における修学の生活に入られるが、浄土開宗に至るまでの約二十五年間、幼少期の怨憎と父母に対する思慕の念、そして父の遺誡が極めて大きな影響をもたらしたのではないかと考えられる。『勅伝』第六巻に、
悲しきかな悲しきかな、いかがせんいかがせん。ここに、我等ごときは、すでに戒定恵の三学のうつわものに非ず。 この三学のほかに、我が心に相応する法門有りや。我が身に堪えたる修行や有ると、 よろずの智者に求め、もろもろの学者に とぶらいしに、教うるに人もなく、示す輩もなし。 
         
(聖典六・六二)

とある。比叡山の天台宗における教義体系の中で学べば学ぶ程、また実践すればする程、自らの限界を、そしてまったく、どうにもならない所謂、凡夫であることを感じ取っていかれたのであろう。
 『勅伝』第四巻には、
保元元年、上人二十四の歳、叡空上人に暇を請いて、嵯峨の清凉寺に七日参籠のこと有りき。
(聖典六・二七)

の記載が見られるが、保元元年(一一五六)法然上人は二十四歳になられた時、それまで一度も離れたことのなかった比叡山を、師の叡空の許しを得て離れ、嵯峨清凉寺に七日間の参籠をされた。参籠七日を満じた上人は続いて南都(奈良)へ赴いた。
 周知の如く、当時の南都は法系を異にする北嶺(比叡山)と共に仏教研究の二大拠点であった。法系学系を異にする南都に、法相宗・三論宗・華厳宗、等の門をたたき、日頃の疑問をたずねまわられたのである。このことは、取りも直さず法然上人の、それまでの苦悩と、それを解決するために比叡山とは別の場から、糸口を見出そうとした必死の思いの発露ではなかったであろうか。
 その結果も大きく作用して、帰山の後やがて浄土宗立教開宗の拠となった善導大師の『観経疏』に出会い、選択本願称名の念仏義に到達されたと伝えている。法然上人は「鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事」で「さては念仏の功徳は、仏もときつくし(説き尽くし)がたし」(望月信亨編『法然上人全集』・四四六)と申されるごとく、阿弥陀仏の説き尽くし難い本願力による功徳で怨親を完全に超えられたであろうが、比叡山修学中は怨親を超えることだけでも容易なことではなかったはずである。
 比叡山には論・湿・寒・貧の苦しみがある、といわれるが、この苛酷な日常、そしてやがて専修念仏に到達する過程の厳しい修学と仏道修行実践。そして比叡山横川の恵心院の荘厳な落日に代表される比叡山そのものから醸し出される筆舌に尽くし難い宗教的環境。そのような諸条件があいまって修学期の宗祖に対する大きな支えとなったはずである。
 今日、比叡山の千日回峰行等、仏教の実践行に対する関心は極めて高い。法然上人の説示された本願称名の念仏義は信行ともにあってはじめて成り立つ教えである。しかし怨親を超えて浄土一宗を開立された宗祖法然上人の伝歴を見て教えをいただく時、念仏を念仏行として実践することの大切さを教えられる。
 浄土の教えを説示してくれた大恩教主である釈尊今生、最後のお言葉は「諸行は壊法なり。不放逸によりて精進せよ」(南伝大蔵経七・一四四)であったという。あらゆる障礙を超えるには、弥陀の本願力をたのみとした念仏精進することの大切さということを改めて痛感する。