汝更にと記している。会稽 の恥を思い、敵人を恨むることなかれ。(中略)もし、遺恨を結ばば、その仇世々に尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」…。
(聖典六・一一)
この夏、友人から届いた手紙にこんな話が書いてありました。という文章であった。文面からは『勅伝』に記す、幼少期の宗祖法然上人に対する父時国の遺誡、そして、その遺誡の根底にある深い真理に、心の底から感動を覚えたことが痛いほど伝わってくる。一宗の教師という立場にいれば、上記内容は極く常識的内容として看過されがちである。しかし二十一世紀に生きる現代人はほとんどそのことは知らず、しかし我々教師にとっては単なる常識と考えていたことが、実は大変な感動を呼び覚まさせることであることを教えられたのであった。
平安時代の末期、美作国の豪族、漆間時国は夜討ちに遭い瀕死の重傷を負いました。死の床へ九歳の息子を呼んで次のような意味のことを言いました。
「絶対に敵討ちをしてはならない。おまえが親の敵を憎んで殺せば、相手の子もまたおまえを憎み刃を向ける。生々世々殺し合いが続いてしまう。おまえは出家し、修行に励みなさい」
息子は従い、父の菩提を弔い、敵も味方もなく、ともに救われる道を求めて尊い宗教家になりました。浄土宗の開祖、法然上人です。世間では周知の話かもしれませんが、私は初めて知りました。
自爆テロ、それに対する報復戦争、またそれに対する報復テロと、ここ数年、世界各地で凄惨な事件が起こり、どんどんエスカレートしています。「暴力と報復から決して平和は生まれない」という当たり前のことを、今こそみんなで真剣に考えたいと思います。
まこと、怨みごころはと、怨憎を捨てなければ真の安穏は訪れないことを釈尊は説示している。しかし説示をいざ実行するとなると大変むずかしい。『ハンムラビ法典』にある有名な言葉「目には目、歯には歯」に帰納していくのが自然であろう。また釈尊とほぼ同時に活躍したと言われる中国の老子、その老子の語録とされる『老子道徳経』すなわち『老子』にも、
いかなるすべをもつとも
怨みを懐 くその日まで
ひとの世にはやみがたし
うらみなさによりてのみ
うらみはついに消ゆるべし
こは易 らざる真理 なり
(講談社学術文庫679・一四)
怨みに報ゆるに徳を以てすの文章が見られる。この書物が後世日本に与えた影響も少なくはない。延応本『選択本願念仏集』に平基親の作と伝えられ、今日見ている『選択集』序文に老子の尊称である「玄元聖祖」、そして『老子』を意味する『五千言』等、記載されているのを見ても、法然上人在世前後には仏教のみならず中国からの思想も受容されていたのであろう。
(『老子』金谷治、講談社学術文庫1278・一九四)
形見とて はかなき親の留めてし この別れさへまたいかにせんと心情を歌にたくしているが、母子双方の別離の心の痛みが止めどなく伝わってくる。この別離以後、母子があい目見えた正確な記録はない。
(勅伝一/聖典六・一六)
悲しきかな悲しきかな、いかがせんいかがせん。ここに、我等ごときは、すでに戒定恵の三学のとある。比叡山の天台宗における教義体系の中で学べば学ぶ程、また実践すればする程、自らの限界を、そしてまったく、どうにもならない所謂、凡夫であることを感じ取っていかれたのであろう。器 に非ず。 この三学の外 に、我が心に相応する法門有りや。我が身に堪えたる修行や有ると、万 の智者に求め、諸 の学者に訪 いしに、教うるに人もなく、示す輩もなし。
(聖典六・六二)
保元元年、上人二十四の歳、叡空上人に暇を請いて、嵯峨の清凉寺に七日参籠のこと有りき。の記載が見られるが、保元元年(一一五六)法然上人は二十四歳になられた時、それまで一度も離れたことのなかった比叡山を、師の叡空の許しを得て離れ、嵯峨清凉寺に七日間の参籠をされた。参籠七日を満じた上人は続いて南都(奈良)へ赴いた。
(聖典六・二七)