3 怨親の昇華─み仏にまかせる
往生の業には念仏を先とす─凡夫往生・『選択集』のこころ
四十三歳で「一心専念弥陀名号…」の実践に任せきる偉大なる転機、すなわち、本願口称念仏に生きるという立教開宗は、法然上人の生き方がすべて「一心専念弥陀名号…」の実践に収斂されることを証左しています。一日六万遍の念仏行者である法然上人に開かれ味わわれる世界が、三昧発得の体験として語り出されています。とりわけ、六十四歳ごろから十年間に記録されている『三昧発得記』によれば、この三昧発得体験のなかで『選択本願念仏集』が撰述されたことがわかります。
『選択集』は、浄土三部経を土台として中国・日本の浄土教論者の理解と実践とを紹介し整理し、特に善導『観経疏』を指南として構成されている教行の書です。その意味で、この書を貫く中心軸は「一心専念弥陀名号…」の選択本願念仏であり、その真髄は劈頭に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」と喝破されています。
『選択集』は、若き法然上人が「幼稚の昔より父の遺言忘れがたくして」と心に留め過ごした切実なる課題を、六十六歳に至る己証の中で具体的に教疏・論書を通して解明する書です。知識的関心や教条的解明などによって注目されるとしても、この書は法然上人ご自身の問題・課題の解明を果たす営みの結晶であるという捉え方を強調したいと思います。
端的に言えば、法然上人は、「一心専念弥陀名号…」の実践者として自らの“怨親の相克を超え”ることができたのです。そして、今ここに、『選択集』において浄土三部経・中国や日本の教疏・論書を自家薬籠なるものと成し、「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」教行実践を通して“怨親の昇華”を表明することができたのです。
我、この事言わずばあるべからず─法難と流罪・真実の発露
法然上人による“怨親の昇華”の表現(『選択集』)は、当時の仏教界から誤解を招き、厳しい非難を浴びせられました。
それは、法然上人の教えが煩悩に塗れた人間(凡夫)ゆえに苦悩する“怨敵と親愛との限りない相克”を乗り超えるべき課題解決として具体的であったために、観念的にしか人間と仏教とを捉えようとしない旧仏教側の限界を暴露するだけのことであったと判断されます。
法然上人七十二歳(元久元年)の冬のことでした。
上人の勧化(かんげ)、一朝(いっちょう)に満ち、四海に及ぶ。然るに、門弟の中に専修に名を借り本願に事を寄せて、放逸の業を為す者多かりけり。これによりて南都北嶺の衆徒、念仏の興行を咎め、上人の化導を
障碍せむとす。(中略)元久元年の冬の頃、山門大講堂の庭に三塔会合して、専修念仏を停止すべき由、座主大僧正(真性)に訴え申しけり。
(勅伝三一/聖典六・四八五~四八六)
という出来事でした。法然上人は、
この事を聞き給いて、進みては衆徒の鬱陶を休め、退きては弟子の
僻見を戒めむ為に、上人の門徒を集めて七箇条の事を記して起請を為し、宿老たる輩八十余人を選びて連署せしめ、長く後証に備え、即ち座主僧正に進ぜらる。
(同/聖典六・四九〇)
のでした。そこには、対外的には非難する衆徒たちの鬱陶しい思いを休め、足元の門弟たちには誤った考え、行動を戒める法然の姿が彷彿としています。
そして、七か条からなる注意事項の告知と八十八人の門弟のサインとが記してあり、座主へ届ける起請文中で、
一事一言、虚言をもちて会釈を儲けば、毎日七万遍の念仏、虚しく其の利を失い、三途に堕在して、現当二世の依身、常に重苦に沈みて、永く楚毒を受け了んぬ。伏して乞う、当寺の諸尊、満山の護法、
証明知見し給え。源空敬白。
元久元年十一月七日 源空 (同/聖典六・四九三)
と、はっきりと自らの所信を述べています。つまり、「一事一言、虚言をもちて会釈を儲けば、毎日七万遍の念仏、虚しく其の利を失い、三途に堕在して、現当二世の依身、常に重苦に沈みて、永く楚毒を受け了んぬ」と。訴える相手と門弟とに気遣いしながら、自身の“真実の発露”が表明されているのです。
このようにして、法然上人への非難・批判がしだいに落ち着いてくる頃、建永元年十二月九日に後鳥羽院が熊野山へ臨幸し御所を留守にした間に、門弟の住蓮・安楽による東山鹿谷での別時念仏・六時礼讃の勤めに御所の女房が参加し出家の事態が生じ、還ってきた後鳥羽院に讒言し大変な逆鱗に触れてしまい、住蓮と安楽は死罪となりました。その責任が、師僧の法然上人に向けられました。『勅伝』第三十三巻には、
安楽死刑に及びて後も逆鱗猶止まずして、重ねて弟子の科を師匠に及ぼされ、度縁を召し、俗名を下されて、遠流の科に定めらる。
藤井元彦、彼の宣下の状に云く、
太政官符 土佐国司、
流人藤井の元彦
(聖典六・五四〇~五四一)
とあります。それは、建永二年二月二十八日のことでした。七十四歳の法然上人は流罪の身となり土佐国へ流されることになったのです。
門弟らの弁明や意見に対して、流罪にあたっての法然上人は、
流刑さらに恨みとすべからず。その故は、齢既に八旬に迫りぬ。
仮令、師弟同じ都に住すとも、娑婆の離別近きにあるべし。仮令、山海を隔つとも、浄土の再会何ぞ疑わん。又、厭うと雖も、存するは人の身なり。惜しむと雖も、死するは人の命なり。何ぞ必ずしも所によらんや。加之、念仏の興行、洛陽にして年久し。
辺鄙に赴きて、田夫野人を勧めむ事、
年来の本意なり。然れども、時至らずして、
素意未だ果たさず。今、事の縁によりて年来の本意を遂げん事、頗る朝恩ともいうべし。この法の弘通は、人は留めむとすとも、法更に留まるべからず。諸仏済度の誓い深く、
冥衆護持の約懇ろなり。
然れば、何ぞ世間の機嫌を憚りて、経釈の素意を隠すべきや。但し、痛む所は源空が興する浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるが故に、常随守護の
神祇冥道、定めて無道の障難を咎め給わむか。命あらむ輩、因果の虚しからざる事を思い合わすべし。因縁尽きずば、何ぞ又、今生の再会なからむや。
(同/聖典六・五四三~五四四)
と、力強く門弟に諭しています。人と生まれてきたものは娑婆の別離はすぐそこにあるのだから、浄土の再会こそを疑ってはいけないこと。生老病死する人間の有さまに心を注ぎ、流刑を恨みとせず、むしろ都での仏縁から地方の田夫野人に念仏の教えを広めることができる機会として、朝恩と受け止める法然上人。み教えの流通は人が堰き止めようとしても、教えは留まるものではないという思いなど、その毅然とした言葉は、まさに、“怨みと親しみとの相克を昇華”した深みの中に生まれ故郷を持っていると言えましょう。門弟とのやりとりの最後には、
上人、又宣わく、「我、仮令、死刑に行なわるとも、この事言わずばあるべからず」と。至誠の色、最も切なり。見奉る人、皆涙をぞ落としける。
(同/聖典六・五四四)
と言葉を残しています。「私は、たとえ死刑になっても、このことだけは是非とも言わなければなりません」には、法然上人が生涯をかけて体得した念仏に任せきることからしか発することができない“真実の発露”があります。それは、流罪の旅での田夫人や漁業民との出会いにおける法然上人の教化の精神であることが受領できます。
形容笑めるに似たり─法然上人のご臨終・輝く“いのち”の実現
ご流罪が赦免となった法然上人は、四年近く摂津の国箕面の勝尾寺に居住します。ここでの生活について多くを語ってはいませんが、第三十六巻では、
彼の卿(藤中納言光親卿)、折を得て、早くこの上人の花洛の
往還を許さるべき旨、頻りに奏し申しければ、
(中略)則ち、同(建暦元年十一月)二十日、上人帰洛し給いければ…。
(聖典六・五七八)
と記され、
慈鎮和尚の御沙汰として、大谷の禅房に居住せしめ給う。
(同/聖典六・五七九)
とあるように、七十四歳の冬に、法然上人は東山の大谷の禅房に帰着しました。
そして、
建暦二年正月二日より、上人、日来不食の所労増気し給えり。すべてこの三、四年よりこの方は、
耳目蒙昧にして、色を見、声を聞き給う事、共に分明ならず。然るを今、
大漸の期近付きて、
二根明利なる事、昔に違わず。見る人随喜し、不思議の思いを為す。(中略)同三日、或る弟子、
「今度、御往生は決定歟」と尋ね申すに、「我、元極楽に在りし身なれば、定めて帰り行くべし」と宣う。
(勅伝三七/聖典六・五八二)
と記され、老齢の法然上人の状況が知られます。視覚と聴覚とが回復したことが解ります。特に「我、元極楽に在りし身なれば、定めて帰り行くべし」との言葉は、まさに“怨親を超える”ことから“怨親の昇華”へと在ることを象徴しているように思われます。御遺言「一枚起請文」で結ぶ「ただ一向に念仏すべし」の真実が脈打つごとくに感じ取られます。伝記は、十一日の辰時、同日の己時、廿日の己時、そして廿四日の午時の様子を記しています。
二十三日よりは、上人の御念仏、或いは半時、或いは一時、高声念仏不退なり。二十四日の酉刻より、二十五日の巳時に至るまでは、高声体を責めて無間なり。
(同/聖典六・五八七)
と状態を語り、続けて
二十五日の午刻よりは、念仏の御声漸く微かにして、高声は時々交わる。正しく臨終に臨み給う時、慈覚大師の九条の袈裟を掛け、頭北面西にして、「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」の文を唱えて、眠るが如くして息絶え給いぬ。
音声止まりて後、猶脣舌を動かし給う事、十余遍ばかりなり。面色殊に鮮やかに、形容笑めるに似たり。
建暦二年正月二十五日の午の正中なり。春秋八十に満ち給う。
(同/聖典六・五八八)
と、御臨終のことを厳かに語っています。それは、寿こばしき
命を授かってこの世に誕生した法然上人の、この世を生きる現実として出会った“怨親を超える”課題が、阿弥陀仏に任せきる口称念仏の実践のなかで阿弥陀仏の迎えを得て成就した“輝くいのち”の実現です。
「お顔色はとりわけ鮮やかで、その表情は微笑されているようでした」姿の法然上人こそ、八十年の生涯の歩みを通して成就した“怨親の昇華”そのものです。それゆえに、宗祖法然上人のみ教えに任せきって念仏申す生活が確かにもたらす真実を、どれほど強調してもし過ぎることはないでしょう。念仏生活の究極的な眼目をここに定めるゆえに、法然上人のみ教えに生きる現代の私たちの変わらざる課題であるのです。
おわりに─共に極楽に生まれて仏道を成就しましょう
法然上人のご生涯は、「一心専念弥陀名号…」の実修において極めて特徴的であるといえます。法然上人が自ら抱く問題の解決は、人の世の裸々たる現実において生起した“怨親”そのことに発します。その“怨親を超える”べき仏道修行の道を歩み、口称念仏そのことの相続において“怨親の昇華”を成し遂げたのが、法然上人のご生涯です。とりわけ、善導の「一心専念弥陀名号…」の実践こそが、法然上人の教行の中軸を形成しています。法然上人に導かれる私どもの念仏生活は、究極的には“怨親の昇華”としての“怨親平等”の実現、すなわち、「共に極楽に生まれて仏道を成就する」ことであると言えます。
法然上人の生涯を貫く問題の解決は、「行住坐臥に時節の久近を問わず」に修す口称念仏を自らの体験として実地に修すことにおいて成就したということです。法然上人以後八百年の月日を経た今、私どもは、ここで話題とし考察したような宗祖法然の“生き方”への学びを通して、私どもの課題解決としての念仏生活を相続することに尽きることになります。