2 怨親を超えて─出会いを生かす

父の死の看取り─内なるこころざし


 父母の願いを浴びて尊い“いのち”を生きるにふさわしい幼児、勢至丸が突然出会ったのが父の夜討ちという事件でした。
彼の時国、いささか本姓ほんせいに慢ずる心有りて、当庄(稲岡)の預所、明石の源内武者定明を あなずりて、執務に従わず、面謁めんえつせざりければ、定明深く遺恨して、保延七年の春、時国を夜討にす。この子時に九歳なり。
(同/聖典六・一〇)

と、父時国と定明との敵対の理由と夜討の出来事が記されています。それは、勢至丸が九歳の時のことです。
 一地方にすぎない美作国久米の南条稲岡庄におけるこの出来事は、押領使と預所との役職的争いというレベルを越えて、平安貴族政治のもとでの地方権力者(押領使)と新たに台頭してきた武家政治体制による荘園管理者(預所)との権力闘争であるとみなすこともできます。法然(勢至丸)が生きた時代が含む状況と社会的通念が横たわっています。
 その夜討ちがもたらしたのは、父時国の死でした。
時国、深ききずこうぶりて、 死門しもんに臨む時、九歳の小児に向かいて曰く、「汝更に会稽かいけいの恥を思い、敵人てきじんを恨むることなかれ。 これ、ひとえに先世せんせの宿業なり。もし、遺恨いこんを結ばば、その仇世々よよに尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」と言いて端坐して西に向かい、合掌して仏を念じ、眠るがごとくして息絶えにけり。
(同/聖典六・一一)
と、情景がつぶさに記されています。
 九歳の勢至丸(法然)は、父と向かい合い、父の死を看取ったのです。父の遺言、すなわち、「敵人を恨むな・恨みを持てば仇討ちが代々続く。早く出家して私の菩提を弔い自らの解脱を求めよ」は、端坐して西に向かって合掌し仏を念じつつ息絶えた姿を目の当たりにしたことによって、勢至丸の心に深く刻み込まれたに違いありません。
 敵討ちの身として過ごさざるを得ない、勢至丸の“内なるこころざし”を育て養っていったのが、母と叔父の観覚得業でした。十五歳で母と叔父のもとを離れて比叡山で出家の身となるまでの数年間がもたらした事柄に注目したいと思います。
 父の死の看取りをめぐる出来事は、一体、何を深く意味することになるのでしょうか?
勢至丸のこの体験は、極めて主体的にして厳粛な課題、すなわち、“怨みの相手と親愛なる自己との対立相克を超える”べき問題解決の前に自らを立たせ、自らの“内なるこころざし”の成就へと開かれていく“生き方”のスタートです。


西塔黒谷での体験─各々の志のなかで
仏道修行の最高道場である比叡山は伝教大師最澄が開山し、修行者は『山家学生式』に則て生活する定規があります。師僧の源光上人のもとで、勢至丸は十五歳で大乗戒を受持しました。このことは、仏道修行者として「戒律を遵守し禅定に入り智慧を磨く」生活、そして天台学僧として「天台三大部講読と顕密止観三昧行の実修」に勤しむことを意味します。身を粉にして実修したでありましょう。
 しかし、名誉や利益のための仏道修行ではなくて、勢至丸の心の奥底には常に、九歳の時の出来事による父の遺言のことが課題でした。
幼稚の昔より成人の今に至るまで、父の遺言忘れがたくして、永久とこしなえに隠遁の心深き よしと述べ給うに…。
(勅伝三/聖典六・二三)
と伝記は語っています。そこで、勢至丸が起こした行動は何でしょうか?
久安六年九月十二日、生年十八歳にして、西塔黒谷の慈眼房叡空のいおりに至りぬ。
(同)
とあります。当時の比叡山で真剣な求道者たちが“各々の志のなかで”学徳兼備の僧として尊敬していた西塔黒谷の叡空上人のもとに走ります。志願した理由を述べますと、
「少年にして、早く出離の心を起こせり。真にこれ、法然道理の聖なり」と随喜して、法然房と号し、実名じつみょうは源光の上の字と叡空の下の字を採りて、源空とぞ付けられける。
(同)
晴れて、法然房源空は、他の若き求道僧たちの“各々の志のなかで”共に精進することになります。法然上人は、どのような生活に身を委ねたのでしょうか?
上人、黒谷に蟄居ちっきょの後は、ひとえに名利みょうりを捨て、一向に出要を求むる心切なり。これによりていずれの道よりか、この度確かに生死を離るべきということを明らめむために、 一切経を披閲すること数遍すへんに及び、自他宗の章疏、まなこに当てずということ無し。恵解えげ天然にして、その義理を通達す。
(勅伝四/聖典六・二六)
と語られています。ここに、私どもは、十八歳からの法然上人が黒谷において求めたものを理解することができます。それは、どこまでも“怨親を超える”べき深い仏道修行そのものであったと言えましょう。

嵯峨釈迦堂での参籠がもたらしたこと─共に苦悩の輩

『山家学生式』の定規に則って修行の日々を過ごした二十四歳の法然上人は、一度下山し嵯峨釈迦堂清凉寺へ参籠します。その意図は何? 何故に嵯峨の地なのでしょうか?
保元元年、上人二十四の歳、叡空上人にいとまいて、嵯峨の清凉寺に七日参籠のこと有りき。 求法の一事をしょうのためなりけり。 この寺の本尊釈迦ぜんぜいは、(中略)三国に伝わり給える霊像なれば、取り分き懇志を運び給いけるも、ことわりにぞ覚え侍る。
(同/聖典六・二七)
と述べられています。三国伝来の生身の釈迦像に求法を祈り請う意図であったとされます。
 加えて、考えられることですが、この頃には京の都の随所、嵯峨釈迦堂あたりにも、出家はしていないものの、仏教を篤く教行し庶民の苦悩相談に応じ教導する“聖僧”の集団があったと言われます。多分、百姓や商人や乞食や盗人など様ざまな生業の者たちが、自ら抱く苦悩の解決のために、聖僧のもとに集まってくる情景があったでしょう。そのような庶民の苦悩解決の現場に、法然上人は身を置き経験したことが予想されます。汗臭く泥臭い庶民の苦悩解決に接するにあたり、法然上人は自らの“父の遺言忘れがたし”課題解決は、自分自身だけの求道の課題ではなくて、ここに居座る名もなき庶民も共に解決すべき課題を抱いているのだということを発見したと思われます。そのように感じ取る貴重な経験は、自分だけの課題解決ではなくて、すべての人々が“共に苦悩の輩”であるという貴重な体験であったと予想します。
 この後に、法然上人は南都仏教の学僧を歴訪しています。しかし、自らの問題解決と釈迦堂で直接的に体験した問題解決の方途に食い込むような答えを得ることはできず、そろって法然上人への賛美ばかりでした。その告白は、次の言葉と重なります。
ここに、我等ごときは、すでに戒定恵の三学のうつわものに非ず。 この三学のほかに、我が心に相応する法門有りや。我が身に堪えたる修行や有ると、万の智者に求め、 もろもろの学者にとぶらいしに、教うるに人もなく、示す輩もなし。
(勅伝六/聖典六・六二)
と。「我が心に相応する法門・我が身に堪えたる修行」を模索する法然上人には、確たる応答が与えられるどころか、絶望の状況と言えましょう。


立教開宗のこころ ─「一心専念弥陀名号…」の生き方

法然上人の切実なる模索と求道のなかで、
しかる間、嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教しょうぎょうに向かいて、 手自てずからみずから開き見しに、善導和尚の観経の疏の、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に」という文を見得て後、我等がごとくの無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、 専らこのことわりを馮みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず。また篤く弥陀の弘誓に順ぜり。「順彼仏願故」の文、深く魂に染み、心に留めたるなり。
(同/聖典六・六二)
と述懐しています。善導の『観経疏』散善義で説示の文、すなわち、「一心専念…」こそが、法然その人の魂に深く染み、御心に留められたのです。法然上人はこの文を受領し本願口称念仏の実践に身を委ね、決定的に浄土念仏に帰依し入っていったのです。この一文は、“開宗の御文”と呼ばれています。
 法然上人がその口称念仏へ至る道筋は、
しかればすなわち、源空は、「大唐の善導和尚の教えに従い、本朝の恵心の先徳の勧めに任せて、称名念仏の勤め長日ちょうじつ六万遍なり…。
(同/聖典六・六三)
と述べられます。善導の教えに従い恵心の勧めにまかせて、到達しえたのが「一心専念弥陀名号…」の実践によって開かれてくる世界でした。法然上人の立教開宗とは、そういう意味と内容とを発揮していると思われます。「一心専念弥陀名号…」に全身全霊を注ぐ実践者としての法然上人の生き方は、おのずから、一日六万遍の口称念仏なのです。そのことはまさに、法然上人において、九歳の時の出来事が与えた「怨親を超える」という切実な課題の確かな解決をもたらしました。