1 人として“生”を享けること─寿命(よろこばしきいのち)
数ある法然伝は、ほぼ一様に、法然上人のご誕生以前の父母のことなどから書き出されています。
父は久米の押領使、漆の時国、母は秦氏なり。子無きことを嘆きて、夫婦心を一つにして仏神に祈り申すに、秦氏夢に剃刀を呑むと見て、すなわち懐妊す。時国が曰く、「汝が孕めるところ、定めてこれ男子にして、一朝の戒師たるべし」と。秦氏その心柔和にして、身に苦痛無し。固く酒肉五辛を断ちて、三宝に帰する心深かりけり。
(勅伝一/聖典六・六)
このことは何を読者に気づかせてくれるでしょうか?
私たちは、“いのち”を自分の力で創り出すのではなく、願い祈る心もちのなかで神仏によって授かり養い育てることを知ります。「心柔和にして・三宝に帰する心深かりけり」とある記事は、新しい生命の誕生を恙なく願う母なる者の心がけといっても良いでしょう。
法然上人誕生に際しても、喜びと願いとの交々の描写がみられます。すなわち、
時に当たりて紫雲天に聳く。館の内、家の西に、元二股にして末繁く、高き椋の木あり、
白幡二流飛び来たりて、その木末に懸かれり。
鈴鐸天に響き、文彩日に輝く。七日を経て、天に上りて去りぬ。見聞の輩、奇異の思いをなさずということ無し。
(同/聖典六・七)
とあります。この描写を単なる神話的な奇瑞として放置できるでしょうか?
私たちは、この世にオギャーと産声をあげた時から人としての生命を経験しますが、むしろ、母の胎内においてすでに授かった“いのち”を願われ歓ばれて得ているのであることを、知ることができます。貴い“いのち”がこの世に生まれ出る歓喜・不思議さを語り出しているのです。日本の伝統的な年齢の数え方が、生年月日に一歳を加えた数え歳であることは、ここに話題とするような“いのち”とその尊さ・歓び・不思議さを込めた情感を含んでいます。私たちは、みんな等しく寿命(よろこばしきいのち)を養い・育て・護る営みに従事していることを教わるのです。
それゆえに、日常生活の生業は、すべてみんな等しく寿命(よろこばしきいのち)を養い・育て・護る営みに連なっていることになります。そのような“いのち”観を法然上人は自らの“生き方”を通して、私どもに示し導いて下さいます。