◎ 第2章◎ 念仏生活とのかかわり
二、怨親を超えて─宗祖の“生き方”への学び


佛教大学教授 藤本 淨彦

はじめに─人の世を生きるということ
 今日の自然科学や医学では、人間を「ヒト」と表記し生物・動物体系に属する“生き物”として捉えることが当たり前のようになりました。 そこには、近・現代という時代がはらみ持つ人間観がのぞき出ていると思われます。
 「人間」は、その字が表現していますように、寄り添って支えあって立つ表象=人であり、その間柄において生存する=人間なのです。残念なことに、近・現代の人間観が発揮する影響の中で、私たちは「寄り添って支えあって立つ・間柄において生存する」のが“人間”であるという眼差しを忘れがちです。
 私たちは、古今東西を問わず、みんな人の世を生きています。その生きざまにおいては、寄り添う・間柄・支えあうというようなこととは程遠い経験を否応なしに味わうこともあります。つまり、人としていかんともし難いほどの「貪り・瞋り・癡な心」(煩悩)にまみれ日常的に転変する喜怒哀楽に振り回されながら生きる“人の世”なのです。
 法然上人のご生涯を通して、端的にかつ意味深く語り出されるのが「怨親を超えて」生きる姿です。『法然上人行状絵図』(勅修御伝・四十八巻伝)から読み取りながら、宗祖の生涯を節目々々に意味を探り話題にしたいと思います。そのような“人間への眼差し”をこそ学び取り、私たち自身の“生き方”すなわち念仏の生活へと実地に受け入れるときに、法然上人のお念仏が生き生きと脈打つのです。