7「さとり」から「救い」へ
そしてついに法然上人は、「どう考えても、この私は三学の修行をまっとうできるような器(人間)では有り得ない。戒といっても一つとして守ることができないし、禅定といっても何一つとして満足に習得することもできない。ましてお釈迦さまのように一切の迷いや苦しみから離れ、正しい智慧を獲得してさとりを開くようなことは不可能である」という結論に達しました。これは、決して修行を諦め、あるいは周囲を見渡して言った言葉ではなく、他の誰でもなく上人自身が、自らがお釈迦さまと同じさとりを求め続けながらも、ついにその境地には到り得なかったことを正直に述べた言葉でした。この言葉こそ、上人が本気で仏教に向き合い、そしてお釈迦さまのさとりの本質を考え抜き、同時に「人はどこまでも人であり、生涯に渡って悩み苦しみ続けるものなのだ」という人間の本質を見て取ったことの証しでした。『勅修御伝』第六巻では、
出離の志深かりし間、諸の教法を信じて、諸の行業を修す。おおよそ仏教多しといえども、所詮戒定恵の三学をば過ぎず。所謂小乗の戒定恵、大乗の戒定恵、顕教の戒定恵、密教の戒定恵なり。しかるに、我がこの身は、戒行において、一戒をも保たず。禅定において一つもこれを得ず。人師釈して尸羅清浄ならざれば、三昧現前せずと言えり。また、凡夫の心は、物に従いて移り易し。例えば、猿猴の枝に伝うがごとし。
真に散乱して動じ易く、一心静まり難し。無漏の正智、何によりてか起こらんや。もし、無漏の智剣なくば、いかでか悪業煩悩の絆を絶たんや。悪業煩悩の絆を絶たずば、何ぞ生死繋縛の身を、解脱することを得んや。悲しきかな悲しきかな、いかがせんいかがせん。こゝに、我等ごときは、すでに戒定恵の三学の器に非ず。この三学の外に、我が心に相応する法門有りや。
我が身に堪えたる修行や有ると、万の智者に求め、諸の学者に訪いしに、教うるに人もなく、示すに輩もなし。
(聖典六・六一~六二)
と描き、法然上人の「人はこの身このままで釈尊のような仏となることができないのだ」という確信を伝えています。
法然上人の、この「すべての人は悩み苦しみ、さとることはできない」という自覚は、再度、上人自身を深い思索へと誘うこととなります。上人は「さとることができず、この世界で苦しみもがいている私達は、一体どうすればよいのか?」と自問し、この世界のあらゆる人々が必ずこの現実の苦しみから永遠に離れることができる教えを模索する日が始まりました。
自らがこの身このままで仏であることも、またさとりを開くことも絶望的にとらえた法然上人は、それでもお釈迦さまの教えの中にすべての人々が人生の悲哀と苦悩から逃れ得る方法を求め続けました。しかしお経を見てもさとりの境地の様子は詳細に説かれてあっても、自らが切望する教えはなかなか見つからなかったのです。
そして法然上人は、比叡山の大先輩にあたる恵心僧都源信の『往生要集』に導かれ、阿弥陀さまの救いを説き示した浄土教に強い関心を持つようになり、『往生要集』で引用した多数のお経や論書をすべて実際に手に取って幾度も通読しました。そして善導大師の主著とも言うべき『観経疏』に出逢うことになります。この時のことを第六巻では次のように描いています。
しかる間、嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて、手自ら開き見しに、善導和尚の観経の疏の、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に」という文を見得て後、我等がごとくの無智の身は、ひとえにこの文を仰ぎ、専らこの理を馮みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず。また篤く弥陀の弘誓に順ぜり。「順彼仏願故」の文、深く魂に染み、心に留めたるなり。恵心の先徳の『往生要集』を被輩くに、往生の業は念仏を本となす」と言い、また彼の人の『妙行業記』の文にも、「往生の業、念仏を先となす」と言えり。覚超僧都、恵心の僧都に、問いて宣わく、「所行の念仏は、これ事を行ずとやせん。これ理を行ずとやせん」と。恵心の僧都、答えて宣わく、
「心万境に遮る、ここをもて、我ただ称名を行ずるなり。
往生の業には、称名尤も足れり。
これによりて、一生中の念仏その数を勘えたるに、
二十倶胝遍なり」と宣えり。しかればすなわち、源空は、「大唐の善導和尚の教えに従い、本朝の恵心の先徳の勧めに任せて、称名念仏の勤め長日六万遍なり。死期、漸く近づくによりて、また一万遍を加えて、長日七万遍の行者なり」とぞ、仰せられける。
(聖典六・六二~六三)
来る日も来る日も経典や論書をめくり、幾度も大蔵経を端から端まで精査した法然上人は、ついに「自らこれまで多くの罪を犯し、
今生まで苦しみの世界を彷徨い続けてきたこの私が、今こそ阿弥陀さまのお名前をとなえることによって、阿弥陀さまの本願のお救いを受け、極楽世界に往生することができる」という善導大師の教えと対面し、善導大師の言葉の真意を受け取りました。この時のことを上人自ら「善導大師の『観経疏』に出逢い、そして一心専念弥陀名号の文章を目の当たりにした時、これこそ今まで私が探し求めてきた教えであると声をあげ、喜びのあまりに感涙にむせぶばかりであった。あの日以来、私はあらゆる修行を止め、ただお念仏のみをとなえるようになったのだ」と述懐しています。
善導大師が開顕し、法然上人が開示したお念仏の教え、阿弥陀さまの救いとは、「あらゆる人々をすべて必ず救い取る」という阿弥陀さまの本願の本意に他ならず、これこそ法然上人が自らの人生を賭してまで探し求め続けた「すべての人々が人生の悲哀と苦悩から離れ得る唯一のお釈迦さまの教え」だったのです。