6 諸宗の研究


 比叡山における天台宗の学問を研究し、やがてその限界を見定めた法然上人は、天台宗以外の仏教の教えを求め、二十四歳の時に南都へ遊学します。遊学に先立ち、上人は嵯峨野の清凉寺に七日間の参籠を行いました。そして南都に赴き諸宗の教義を究めますが、やはり得心できるものではなかったようです。このことを第六巻では、
上人、聖道諸宗の教門に明らかなりしかば、法相・三論の碩徳(せきとく)、面々にその義解を感じ、天台・華厳の名匠、一々に彼の宏才を誉む。しかれども、なお出離の道に煩いて、身心安からず。順次解脱の要路を知らんために、一切経を被(ひら)き見給うこと五遍なり。一代の教跡(きょうせき)につきて、倩(つらつら)思惟し給うに、彼れも難く、これも難し。
(聖典六・五六)
と伝えています。また法然上人が修学期に書いたと考えられる『浄土初学抄』には諸宗について論ずる中で「雖文義広博ナリト 徃生極楽 。然者非西方之指南 也」(昭法全八三四)と述べ、諸宗の教えの中には自らが探し求める教えがなかったことを述懐しています。
こうして上人は南都遊学から比叡山に帰った後も、「すべての人が間違いなく仏となり、そして争いなく心静かになる教え」を求め続けました。