5 修行時代
比叡山黒谷の青龍寺で修行を続けた法然上人は、天台宗に伝わるさまざまな過酷な実践行を体験したかもしれません。未明から比叡山を駆け巡る回峰行、坐禅を組んだまま幾日も過ごす常坐三昧や、お念仏をとなえながら幾日も阿弥陀さまの周りを歩む常行三昧、今でもこれら厳しい修行が比叡山で行われています。
日々、学問の研鑽とともに厳しい修行を続け、心身ともにただひとすじに仏道を歩もうとした法然上人でしたが、学問と修行を通じて「一体、何がお釈迦さまのさとりなのか? どうしたらお釈迦さまのようなさとりを開くことができるのか?」と自問すればするほどに、ますます深く、そして激しく悩み苦しむ日々が続きました。悩めば悩むほどにますます修行に打ち込み、修行を積めば積むほどにまったく消え去ることのない雑念や妄想、そして人生の悲哀と苦悩に、ただただ悩みもがくばかりの毎日を過ごしていたことでしょう。『勅修御伝』第四巻では、上人の修行と学問の日々を、
上人、黒谷に蟄居の後は、ひとえに名利を捨て、一向に出要を求むる心切なり。これによりていずれの道よりか、この度確かに生死を離るべきということを明らめむために、一切経を披閲すること
数遍に及び、自他宗の章疏、眼に当てずということ無し。
恵解天然にして、その義理を通達す。
(聖典六・二六)
と描いています。この「ひとえに名利を捨て、一向に出要を求むる心」こそ、時国の遺言を心に刻み、ただ一心に一切の争いがなく心静かな仏の覚りを求めようとする法然上人若かりし時代の姿でしょう。
と描いています。この「ひとえに名利を捨て、一向に出要を求むる心」こそ、時国の遺言を心に刻み、ただ一心に一切の争いがなく心静かな仏の覚りを求めようとする法然上人若かりし時代の姿でしょう。
(聖典六・二六)
とあり、円頓戒の戒体に関する両者の意見の隔たりを伝えています。
また第十三巻には、
「慈眼房は、受戒の師範なる上、同宿して衣食の二事、一向この聖の扶持なりき。しかれども法門をことごとく習いたることは無し。法門の義は、水火のごとく相違して、常に論談せしなり」。この聖と源空とは、南北に房を並べて住したりしに、ある時、聖の居給える房の前を過ぐるに、
聖見給いて、「あの御房や」と呼び給えば、止まりて、「縁に居て候」と申すに、「大乗の実智興さで、浄土に往生してんや」と宣うに、「往生し候いなん」と答え申す時、「何にさは見えたるぞ」と宣う間、「『往生要集』に見えて候」と申すに、「『往生要集』の中を見給いたるぞ」と宣う間、「いざ、誰が
中を見ざるやらん」と申したれば、聖、
腹立て枕を持ちて擲ちに打ち給えば、
やわら逃げて我が房の方へ罷りたれば、追うておわして、帚の柄を持ちて、肩を打ちなどし給いき。
また後に文を持ておわして、「これは、いかに言うことぞ」と宣うを、心の中に、無益なり、
ことの出で来れば、今は物申さじと誓いを起こして、「いざいかゞ候らん」と申したれば、また腹立て、
「それらが様なる人を同宿したるは、かようのことをも言い合わせん料にてこそあれ」と宣いき。かようにして、常に争いはせしかども、最後には、覚悟房といいし聖に二字を書かせて、却りて弟子になりて、房舎聖教の譲り文をも、
元は譲渡と書かれたりしを取り返して、
進上と書き直して賜びて、「生々
世々に、互いに師弟とならむ料に申すぞ」と宣いき。
(聖典六・一四三~一四四)
とあり、法然上人が叡空上人から衣食住を与えられていながらも、なかなか互いの意見が一致することがなく、特に『往生要集』の理解については両者の溝が深かったようです。
このように法然上人が頑なまでに自説を主張する理由は、「自分のみでなくすべての人が仏となることができる教え」を追及していたこと、そして当時の天台宗の教えを、上人が理解はしても納得はしていなかったということではないでしょうか。