4 比叡山へ


 観覚上人は以前から親交があった比叡山西塔さいとう北谷に住む持宝房源光じほうぼうげんこうに、十五歳になった勢至丸を預けます。この時、観覚上人は源光上人に「偉大なる智慧の菩薩である文殊さまをおとどけします」という紹介状一通を勢至丸に持たせたそうです。源光上人のもとで仏教の勉強に励む勢至丸でしたが、さらに深くお釈迦さまの教えを究めるために出家して本格的な修行の道を歩む決意をします。 そして、その揺るぎない決意を知った源光上人は、勢至丸を学僧の誉れ高い皇円阿闍梨こうえんあじゃりのもとに送ります。勢至丸は皇円阿闍梨のもとで出家し、その後三年間、天台宗の教行を研鑽します。この時、皇円阿闍梨は勢至丸のことを「この者はやがて比叡山第一の大学者となり、 天台宗の座主ざすにまで出世する大器である」と評しています。
 しかしこの頃の比叡山は治安が乱れ、心静かに勉強できるような環境ではありませんでした。また勢至丸も出世や名誉に全く興味をおぼえず、ただお釈迦さまの教えを知りたい一心だったことでしょう。早くに家族をなくすという悲惨な経験をした青年には、もはや世俗の喧騒などには心動かされることがなかったのかもしれません。真剣に仏道を歩もうとした勢至丸は皇円阿闍梨のもとを離れ、比叡山の中でも一層山深い黒谷に隠遁いんとんして修行する 慈眼房叡空じげんぼうえいくうの弟子となる決意をします。当時の比叡山で隠遁するということは、出世コースから離れるということを意味します。勢至丸にとって大切なことは、世間的な出世ではなく、宗教的な真理だったのです。叡空上人の弟子となり、名前も法然房源空と改めます。法然上人、十八歳の時のことでした。この時の様子を『勅修御伝』第三巻では次のように伝えています。
なをこれ名利の学業がくごうなることを厭い、たちまちに師席を辞して、久安六年九月十二日、生年十八歳にして、西塔黒谷の慈眼房叡空のいおりに至りぬ。幼稚の昔より成人の今に至るまで、父の遺言忘れ難くして、永久とこしなえに隠遁の心深き由を述べ給うに、「少年にして、早く出離の心を起こせり。 真(まこと)にこれ、法然道理の聖なり」と随喜して、法然房と号し、実名じつみょうは源光の上の字と叡空の下の字を採りて、源空とぞ付けられける。
(聖典六・二三)
 比叡山での生活は寒気と湿気に満ちたきびしい環境の中で最低限の食事のみで過ごすという実に厳しいものでした。このような過酷な状況にもかかわらず、法然上人は師である叡空上人から教えを受け、両者は時には激しくぶつかり合い、時には共に坐禅や念仏の修行を行い、お釈迦さまのさとりとは一体どのようなものであったか必死で探し求めました。やがて法然上人は二十歳を過ぎ、一人の修行僧として仏教の勉強と修行に精進する日が続きました。