3 菩提寺にて
その後、勢至丸は叔父の観覚上人が住持していた那岐山の菩提寺に身を寄せ、観覚上人について仏教の勉強をはじめました。
観覚上人は奈良で本格的に仏教の勉強を修めた人物でした。ある日、観覚上人が勢至丸に天台宗の教えについて講義をしていると、勢至丸が不思議そうな顔をして「どうしてそういう理解をするのか分からない」と疑問をもらしました。その言葉を聞いた観覚上人は「勢至丸が抱いた疑問は、まだ解決されていない、以前からの大問題だが、この子は一度見ただけでこの問題の全てを見抜いているようだ」と驚愕します。その日以降、勢至丸は乾いた土がどんどん水を吸収していくように、仏教の教えを修学していきました。この様子を目の当たりにした観覚上人は「この子は天才だ。この子は私の力量などはるかに凌いでいる」と言い、勢至丸を、当時、仏教研究の最高峰であった比叡山で勉強させることにしました。
勢至丸が比叡山に赴くということは、夜襲の後に生き残った母・秦氏とも別れねばならないということでした。『勅修御伝』第二巻では母子の別れの場面を次のように描いています。
観覚、小児の器量を見るに、いかにも徒人には非ず覚えければ、
徒に辺鄙の塵に混ぜんことを惜しみて、早く
台嶺の雲に送らむことをぞ支度しける。しかるべきことにや有りけん、小児その趣を聞きて、旧里に留まる心なく、花洛を急ぐ思いのみ有り。観覚喜びてこの稚児を相具して、母の所に行きてことの由を語る。児童母儀を拵(こしらえ)て曰く、
「受け難き人身を受け、会い難き仏教に会う。眼の前の無常を見て、夢の中の栄耀を厭うべし。なかんずくに、亡父の遺言、耳の底に留まりて、心の内に忘れず。
早く四明に上りて、速やかに一乗を学ぶべし。
ただし母世に在さんほどは、晨昏の礼を致し、
水菽の孝を勤むべしといえども、有為を厭ひ無為にいるは、真実の報恩なりと言えり。一旦の離別を悲しみ、永日の悲歎を残し給うことなかれ」と、再三慰め申す。
母堂理に折れて、承諾の詞を述ぶといえども、袖に余る悲しみの涙、小児の黒髪を潤す。有為の習い忍び難く、浮生の別れ惑い易くて、かくぞ思い続ける。
形見とて はかなき親の留めてし この別れさへ またいかにせん
(聖典六・一五~一六)
この一段を読むと、秦氏が、まだ幼さが残る勢至丸をギュッと抱き寄せ、愛しいわが子に今生ではもう逢うことができない哀しさから涙にむせぶ様子を想像することができます。勢至丸は母と涙の別れを済ますと、足早に比叡山に向けて出発しました。