2 夜襲の悲劇


 しかし悲劇は突如として起こります。人生の中の悲劇とは、そうしたものなのでしょう。漆間時国一家の悲劇は、勢至丸が九歳の時におこりました。
 父・時国は、地方豪族として地領を統治していました。また当時は荘園制の時代ですから、中央から地方にいわゆる官僚が派遣され、地領を管轄していました。つまり土地そのものが地方豪族と中央官僚との二重支配体制になっており、いつも年貢のことなどで両者が反目していました。漆間時国の時の中央官僚は明石定明という人物です。時国と定明はまさに犬猿の仲で、いつも勢力争いをしていました。この争いがエスカレートし、ついに明石定明が漆間時国に夜襲を仕掛けます。これこそが明石定明夜襲事件といい、一夜にして勢至丸の人生を大きく変えたものでした。
 暗闇に火のついた矢が飛び、刀と刀が激しい火花を散らした壮絶な戦いであったようです。明け方になり定明側が引き揚げた後には、多数の時国の家来が息絶え、そして時国本人も無数の刀傷を受け瀕死の重傷でした。この一夜の惨事を伝える法然上人のお言葉は残っていませんが、目の前で繰り広げられた死闘は幼い勢至丸のまぶたに焼き付けられたことでしょう。この夜襲の様子を『勅修御伝』第一巻では次のように書いています。
これによりて、彼の時国、いささ本性ほんせいに 慢ずる心有りて、当庄(稲岡)の預所あずかりどころ、明石の源内武者定明(伯耆守源長明が嫡男、堀川院御在位の時の滝口なり)をあなずりて、執務に従わず、 面謁めんえつせざりければ、定明深く遺恨して、保延七年の春、時国を夜討にす。この子時に九歳なり。逃げ隠れて物のひまより見給うに、定明庭に在りて、けて立てりければ、小矢を持ちてこれを射る。定明が目の間に立ちにけり。 このきず隠れなくて、こと現われぬべかりければ、時国が親類の仇を報ぜんことを恐れて、定明逐電して長く当庄に入らず。それよりこれを小矢児こやちごと名付く。見聞の諸人、感歎せずということ無し。
(聖典六・一〇)
自分の死期が間近に迫ったことを悟った時国は枕もとに勢至丸を呼び、「決して仇を討ってはならない」と言い残しました。当時の武家の習慣では、復讐こそが武家の面目であったことでしょう。しかし時国は血で血を洗うような残虐で闇黒な世界へと我が子が歩み入ることに耐えられませんでした。愛すべき勢至丸にこれ以上の苦しみを体験させるわけにはいかなかったのでしょう。九歳といえば自分で判断でき始める年齢です。勢至丸は込み上げる悲しみと怒りをじっとこらえ、今まさに息絶えようとする父の遺言を静かに聞いていました。『勅修御伝』が伝える次の一段こそが、その後の勢至丸の人生を大きく決定付けた箇所です。
時国、深き疵をこうぶりて、死門に臨む時、九歳の小児に向かいて曰く、 「汝更に会稽かいけいの恥を思い、敵人を恨むることなかれ。これ、ひとえに先世の宿業なり。もし、遺恨を結ばば、その仇世々よよに尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」と言いて端坐して西に向い、合掌して仏を念じ、眠るがごとくして息絶えにけり。
(聖典六・一一)
 この時国の「もし、遺恨を結ばば、その仇世々に尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」という最期の言葉には、「今の争いが次の争いを招き、次の争いがまた次の争いを招くのだ。人は争いを止めない限り、永遠に争い続けねばならない。だからこそ争いを止めて出家し、このように思いがけずも今、死を遂げる父の菩提を弔い、そして自ら永遠の平和と安息を求めよ」という強いメッセージが込められています。連日、メディアを通じて報道されている世界中の戦争のニュースを見るたびに、時国の最期の言葉がいかに重要なメッセージであるかということが痛いほど伝わってきます。
 数日後、夜中に人目を忍んで夜襲の傷が生々しい生家を後に、母方の叔父にあたる観覚が住む菩提寺へと歩む勢至丸の姿がありました。この時の勢至丸には、「もう、二度とここに帰ってくることはないだろう。今はとにかく生きのびよう…」という気持ちであったことでしょう。
 このように法然上人の幼少期は、筆舌に尽くし得ないような悲劇に見舞われたものであり、このことが法然上人の人格形成に大きな影を落としたことは想像するに難くありません。後の法然上人の弟子の中には、上人自らが、源氏に追われた平家一門の子供や、権力の座から追われた貴族の子供などを引き取って育てた人物も見られます。法然上人は自分の幼少期の体験から、時の権力から追われた子供達を引き取り育てられたのかもしれません。