3 怨親を超えて

遺言を支える宗教真理
 法然上人の出家者としての原点は周知の通り、父の非業の死とその遺言にあった。世俗の習いに身を置けば勢至丸は当然敵明石の定明を討たねばならないし、定明の係累者も勢至丸を仇として狙い、稲岡荘では流血の惨事が繰り返されることになる。しかし武士社会では報復の行為は決して珍しくない。
 このような報復の応酬は現在も中東地域でなお続いている。しかも宗教が絡み、憎悪の炎が熾んである。国内においても対人関係で暴力殺人の応酬が後を絶たない。憎悪の連鎖を絶たない限り、行き着く先は絶望である。この危機的状況を脱するには平和を願う宗教の崇高な精神が必要である。武力をもつものの精神性が暴力や流血惨事を少しでも緩和してくれるであろう。望みを託したい。
 現代と、法然上人の時代にも、通じあう状況があった。平安末期には、荘園の現地預所と地方治安の権を任された押領使という、ともに武力をもったもの同士の対立であった。また、鎌倉幕府成立後は関東の御家人層が都においても武威を誇っていた。武力による席巻に弱者は翻弄され、敗者は復讐を図った。悪業が原因で自滅した勢力も再起を期して報復の一念で刃を磨いていた。そんななかで、武力による応酬の連鎖を絶つ道を宗教に求めたのが法然と父とであった。
 漆間家が惨劇を耐えられたのは、時国の子、勢至丸の出家であり、出家せよと命じた父時国の仏教的な人間観ないし生命観、世界観であった。父の遺言は、『本朝祖師伝記絵詞』(善導寺本)の方が『勅修御伝』より名文であるが、趣意は共通している。すでに述べたように、どちらの遺言の方が史実かどうかの問題を論じるのではなく、両書に見えている仏教的思考に注意したいと思う。
 『勅修御伝』第一巻には「なんじさら会稽かいけいはじを思い、 敵人てきじんうらむることなかれ。これ、ひとえに ・・・・・先世せんせ宿業しゅくごうなり。もし、 遺恨いこんを結ばば、そのあだ 世々よよがたかるべし。しかじ、はやぞくのがれ、 いえて我が 菩提ぼだいとぶらい、 みずからが だつもとめんには」とある(傍点筆者、聖典六・一一)。また、明石定明については第二巻に「・・・・已造いぞうつみい、 ・・・・当来とうらいかなしみ、念仏怠らずして・・・・・往生の望みを ぐ」と書かれている(聖典六・一二)。
 『本朝祖師伝記絵詞』には「敵人をうらむる事なかれ、是前世のむくひ也。猶此報答を思ならば、転展無窮にして世々生々にたゝかひ、在々処々にあらそふて輪廻たゆる事なかるべし(略)願は今度妄縁をたちて彼宿意をわすれん。意趣をやすめずば、いづれの世にか生死のきずなをたたん云々」とある(法伝全四六九)。
 ここには、一読自明のように、古代インドや仏教がもっていた輪廻思想、生死流転からの超越方法が、時国の遺言を借りて教えられている。
 自分の死は前世の報いである、と時国は死を受容する。「先世の宿業」の結果と自覚する。報復行為に出たなら、父子ともども来世で罪の報いを受けねばならない。遺恨を結び敵討ちするなどの「妄縁」を断ち切って、お前は出家となり、私の来世での成仏と自身のさとりを求めよ、と遺言したのである。
 輪廻からの出離を願って、時国は自身の成仏と子息の出家、解脱を求めた。釈尊の教えに、
怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり。
(『法句経』第五偈)
というのがある。
 漆間時国が死に臨んで下した決断は、敵を許すまことに崇高な「忍」であった。世俗の武士の道徳からすれば、時国は愚者と評されて然るべきであった。これについても釈尊の、
わが愚かさを悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず、自らを知らずして、賢しと称するは愚中の愚なり。
(同第六三偈)
の言葉を想起すれば、愚者時国ではなく、仏教思想に立脚した賢明な武人であった。
 ところで『勅修御伝』は、時国の館に夜襲をかけた定明については、「当来の苦」を悲しみ、犯した罪を懺悔し、自らも、また子孫も浄土教に帰したという。定明は「念仏をこたらずして往生の望をと」げたが、伝記はそれもこれも法然上人に「怨敵をうらむる心」がなかったからだと語っている(第二巻)。
 法然上人の父との死別の場面は、法然諸伝がもっとも力をこめて物語るところであり、伝記前半のハイライトがここにある。父の遺言は多くの説教者によって語り継がれていったが、見落としてならないのは次のことである。それは、相互の敵対、復讐の連鎖がもたらす造罪を断ち切って、彼我の罪過を許しあう 寛怨かんじょの精神を、浄土宗が乱世を生きる人びとへの指導原理として説き続けていったという歴史事実である。

大胡太郎、津戸三郎への消息
 法然上人が傾倒された中国浄土教では、人間を「末法の凡夫」「罪障の凡夫」「造悪の凡夫」と位置づけ、罪悪を犯し続け、生き死にの世界に迷っている愚かな人間、すなわち「罪悪生死の凡夫」とされる。この衆生が生死の輪廻を脱する道は何か。法然上人は上野国の御家人大胡太郎への消息で、
然るに衆生の生死しょうじを離るるみち、 仏のおしえさまざまに多くそうらえども、この頃、 人の生死を離れ、三界さんがいを出 ずるみちは、ただ極楽に往生し候ばかりなり。この旨、 聖教しょうぎょうの大きなることわりなり。 次に極楽に往生するに、その行様々ぎょうようように多く そうらえども、我等が往生せむ事、念仏にあらずば、叶いがたく候也。そのゆえは、念仏は仏の本願なるが故に、願力に すがりて往生する事はやすし。 さればせんずる所、極楽にあらずば、生死を離るべからず、念仏にあらずば、極楽へ生まるべからざるものなり。 深くこの旨を信ぜさせ給いて、一途ひとすじに極楽を願い、一途に念仏して、このたび必ず生死を離れんと思し召すべきなり。
(勅伝二五/聖典六・三七六~三七七)
と説いておられる。
 また、弥陀の念仏往生の誓願について武蔵国の御家人津戸三郎への消息で、

念仏往生の誓願は、平等の慈悲にじゅうしておこし 給いたる事なれば、ひとを嫌う事は候わぬなり。 仏の御心みこころは、慈悲をもってたいとする事にて候なり。されば『観無量寿経』には、「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。善導和尚、このもんを受けて、 「この平等の慈悲をもっては、遍く一切をせつす」と釈し給えり。 一切のごん広くして、漏るる人候べからず。
(同二八/聖典六・四三四)
と書かれている。この文章の直前には、弥陀の誓いは有智・無智、持戒・破戒、仏前・仏後の衆生、在家・出家の別をえらび給わずとあり、怨・親の関係にある人も普く一切を摂取し給うとの文が出ている。

「怨親平等」を示す源智造立阿弥陀仏像
 紙幅も少なくなってきたので、最後に怨親一様に弥陀に包摂されている文化財を紹介しておこう。それは源智上人が法然上人の示寂直後に始められた念仏結縁運動によって製作された阿弥陀仏像のことである。昭和五十二年三月に発見されてから年数も過ち、この仏像を主題にされた講演なども何回か行われているので、目新しい話題ではない。
 しかし『勅修御伝』編修時に紫野門徒に秘蔵されていたこの仏像がもし編者の舜昌ら資料蒐集撰述集団の知るところであったならば第四十五巻の「源智」はきっと加筆されていたと思われる。ここでは源智が思う「師恩」が何であり、「恩徳報謝」の具体的行為をどのように考えていたかを、具体的に「造立願文」の中から見出してみたい。源智の報恩行は現在のわれらがなすべきことを教えてくれている。左に原文(漢文読み下し)を掲げる。

弟子源智敬って三宝諸尊にもうしてもうさく。 恩山、もっとも高きは教道の恩、徳海、尤も深きは厳訓の徳。凡そ俗諦の師範、礼儀の教すら、両肩に荷うも なを重し。いわんや、真諦の教授、 仏陀の法においてをや。ここに我が師上人、先に三僧祇さんそうぎの修行を捨て、一仏乗の道教に入り、後に聖道の教行を改めて、偏えに浄土の乗因を専らにし給う。 この教えは即ち凡夫出離の道、末代有縁の門なり。これにりて、 四衆は望みを安養の月に懸け、五悪ごあく闇忽たちま ちに晴れ、未断惑みだんなくの凡夫は忽ちに三有さんうすみかを出で四徳の城に入る。偏えに我が師上人の恩徳なり。粉骨、曠劫こうごうにも謝し難く、抜眼、多生にもあに報ぜんや。 ここを以て三尺の弥陀像を造立し、先師の恩徳に報ぜんと欲す。この像中に数万人の姓名を納むるは、これまた幽霊の恩に報ずるなり、 ゆえんいかんなれば、先師はただ化物けもつを 以て心となし、利生りしょうを以て先となせばなり。よって数万人の姓名を書き、三尺の仏像に納む。 これ即ち衆生を利益するの源にして、凡聖ぼんしょう一位の こころ、迷悟一如の義なり。迷悟一如の意に住し、 衆生を利益するのはかりごとを以て、先師上人の恩徳に報謝するなり。なんぞ真の報謝にあらざらんや。像中に納め奉るところの道俗貴賤、 有縁無縁のたぐいはみな愚侶の方便力ほうべんりきに隨いて、必ずや我が師の引接いんじょうこうむらん。 この結縁の衆、一生三生のうち、早く三界の獄城を出て、速やかに九品の仏家に至るべし。 すでに利物りもつを以て師徳に報ず。 まことにこの作善は莫大なり。上分の善を以て、三界の諸天・善神の離苦得道が為に、兼ては秘妙ら親類が為なり。中分の善を以ては、国王・国母こくも・大政(太上)天皇・百官・百姓・万民が為に、下分の善を以て自身の往生極楽を決定けつじょうせんが為なり。 もしこのうち一人さきに浄土に往生せば、忽ち還来げんらいしてざん衆を引き入るべし。もしまた 愚痴の身さきに極楽に往生せば、速やかに生死しょうじの家に入りて残生を導化せん。 自他の善和合すること偏えに網の目に似たり。わが願を以て衆生の苦を導き、衆生の力を以て我が苦を抜かん、自他ともに五悪趣を離れ、自他同じく九品の蓮に生ぜん。このねがいまことあり、この誓や尤も深し、必ずや諸仏・菩薩の諸天・善神、弟子が所願を知見して、即ち成熟円満せしめ給わんことを、敬って白す。
建暦二年十二月廿四日 沙門源智敬白

 文中に傍線を附した箇所に、源智の祖師への恩徳報謝観が出ている。
①末代の迷徒に開かれた出離の要道は浄土の教えだけである。これにより道俗いずれもが浄土の月を仰ぎ、五悪の闇を晴らし、迷いを断てない凡夫も迷界を離れてさとりの境地に入ることができる―これぞ上人の恩徳である。
②この恩徳に応えるため、阿弥陀仏像の中に数万人の姓名を納めた―これは上人の恩に報ずるためだ。上人が「化物」(人びとを導く)「利生」(人びとを利する)を真っ先に心がけておられたからだ。
③仏像内に姓名を書いた紙片を入れたというのは、とりも直さず衆生利益を根源とする心の表れであると思ってほしい。迷える凡人がさとれる仏と一体になって、「凡聖一位」「迷悟一如」の義が象徴されているのだ。この方法は、念仏に結縁した人びとの名が仏と不二の関係にあるのだから、①でのべた上人の恩徳に応える真の報謝の行いではなかろうか。 ④⑤⑥このように「利物」で師徳に報いた。交名きょうみょう(リストに名を列ねたもの、または人)にある誰か一人が先に往生したなら、すぐに穢土に還来して残衆を引摂されたい。ましてや私源智が往生したなら、生死流転を重ねる家郷の残りの人びとを化導しよう。
⑦このように、自分も他人も先に往生したら娑婆に還り来て残りの人びとを導くという善き行為は、網の目のように連結していくであろう。わが願いで他人の苦を導き、人びとの力でもってわが苦因を抜済してくれよう。自他ともに悪趣への流転を離れ、自他同じく浄土の蓮華上に化生したいものである。

 源智と源智が派遣した念仏聖が各地で念仏会をつとめ、多数の結縁者を集め、その姓名が源智のもとに報告された。結縁者の数は「数万人」(願文)に及んだが、実数でも四万五千人に達している。自分の名は当然、菩提を弔おうとする過去者の名も連ねられている。注意してみていると、源智の縁に列なる平家一門、平師盛、平重盛、平清盛、平宗盛、平重衡などの名が、また源氏では源頼朝をはじめ義経、範頼、実朝らの名が出ている。しかも義経、範頼と宗盛、知盛ら対峙しあった武者公達の名が隣あって書かれている箇所があった。この結縁交名には、すでに亡くなっている者の名があるが、それは縁者が菩提を弔って名を書いたのである。源智の念仏運動に結縁した人びとは、かつての敵対者も、また人の世を凝視した心ある人も、滅亡した公達の名を書き、それらの人びとのために念仏をとなえ、後生善所を願った公達の名を書いたのである。その証拠に平家一門の名は何回となく出ている。
 後鳥羽天皇により死刑となった安楽房遵西、住蓮房、善綽房西意、聖(性)願房の名も出ている。この箇所は源智自身の筆跡である。彼自身、上人の四国配流と関係者の流罪があった建永の法難は忘れ難いことであった。そのため、源智は法然上人をはじめ真観房感西、自分の親族、証空、信空らの名を書き上げた箇所のそばに流罪者の名を挙げている。六年前にあった念仏者弾圧事件での死罪者に源智はどのような感情をもっていたのであろうか。親鸞は「主上臣下、法に背き義に違い、忿りを成し怨みを結ぶ」と激越な言葉を『教行信証』後序に記している。「忿りを成し怨みを結」んだのは、後鳥羽上皇の方であった。源智が親鸞と同様であったかよくわからないが、実はこの交名群の冒頭に源智自筆で「尊成たかなり」と後鳥羽上皇の名を記しているのである。源智の胸中には、後鳥羽院を許す方向で心に変化が生じていたのではなかろうか。もちろんこの時点では権勢をもった現存者であって、隠岐の廃帝ではない。源智の心奥には、念仏者を断罪した「罪障」の後鳥羽院こそ生死離脱が許されるべきだとして交名に加えよう、との考えがあったのではなかろうか。
 数万人の交名から、源智が仏凡一体、迷悟一如の心を形に表したものであり、この衆生利益のはかりごとが、そのまま法然上人への恩徳報謝に結びつくと考えたこと、またその実践が虚事でなかったことが理解されるのである。さらにまたその交名には怨親平等の宗教的な世界、法然上人のいう平等の世界が表されているように感ぜずにはおれない。この世では対立しあった彼らも、あの世において、実はいまはこの阿弥陀仏像の胎内にあって、凡聖一意、迷悟一如となって仏の世界にともどもに住んでいるのである。この平等一如の世界は、「造悪罪障の凡夫が生死の流転から離脱する法門」のもつ浄土教救済理論を抜きにしては語れない。