1.知恩講と伝記編修の真意
知恩講─先師の五徳を讃えて
祖師などの示寂後、その遺徳を追慕して、報恩の至情を捧げる忌日の法要はどのようになされていたであろうか。もちろん時代が遠く離れると、五十年ごとに「(大)遠忌」として盛大に営まれる。法然上人の場合、いうまでもなく、きたる平成二十三年(二〇一一)で遠忌が十六巡する。
法然上人の滅後間もないころは、廟堂で「知恩講」が修されている。その講式は『知恩講私記(式)』と題され、安貞二年(一二二八)八月、信阿弥陀仏が上蓮房本をもって書写されたものが東寺宝菩提院に伝えられている。上人滅後十六年、かの延暦寺衆徒が上人の廟堂を破壊した直後に書写されたものである。
これによると、「廟堂の真影」を礼するもの友を引き群を成し、夜をもって昼に続くありさまで、特に「孟春(一月)廿五日の候、月々下旬第五之天、袖を連ね肩を接し、盛んなる市に異ならず」(同講私記第五讃段)という状態であった。上人の「諸宗通達」「本願興行」「専修正行」「決定往生」「滅後利物」の五徳が讃歎されている。詳細をのべるのは今回の目的ではないので、最小限にとどめると、第一の段と第四の段で上人の伝記的要素、登山、登壇、修学、隠遁、諸学者歴訪、往生等がのべられ、第三、第四の段において教学面の特質がまとめられている。第三段は、道綽禅師、善導和尚は機と時を明鑑した救済者であり、後者の『観経疏』は浄土宗の
濫觴(始まり)、源空(法然)上人の『選択集』は他力門の指南書だと教え、『選択集』十六章段の悼尾に書かれた信仰的表白を多用している。また第三段は、上人が専修念仏による三昧発得者であったこと、最後の第五段では浄土の宗義について「凡夫直往の経路」を示し「選択本願」を顕して念仏行者の亀鏡となられたので、没後も上人の遺徳が盛んであった。そして、これは「時機相応ノ遺誡ノ勝利」だ、と讃える。
『知恩講私記』は三礼、表白に始まり、長文の五段に別れた讃文、そして先師(法然上人)回向をもって終わる。各段の内容は上人の伝記的事項と教説の精髄にかかる要文とで成っていて、いわば一種の伝記・教説提要であるが、この講式のなかに、伝記や法語を学ぶものにとって、心構えとして忘却できない語句が見えているのに留意したい。それは「滅後利物ノ徳」の段にある。利物とは物(一切のもの)を利することをいう。その利物の跡は、
視聴ノ触ルル所、目ニ満チ耳ニ満ツ、流レヲ酌ミ、源ヲ尋ヌルニ、偏ニ先師ノ恩徳ナリ。
とのべている。濁悪の世の劣機のわれらが、浄土念仏の法水を
濫掬いとって口にすることができるのも、水流の源にまします法然上人の御蔭である。先師の伝記、教説を見聞し、また廟堂にぬかずくのも、流れを汲むものにとっては「源を尋ねる」報恩の営みの自然な発露と考えられていたのであった。
知恩講は禅房東崖上の上人廟堂において催されてこそ意義があった講会だから、廟堂破壊とともに廃絶されたようである。しかし文暦元年(一二三四)源智によって後興されるので、知恩講もまた営まれたであろうが定かな経緯はわからない。しかし上人追慕の忌日法要は有縁の所で弘まりをもっていったであろうことは察せられる。たとえば本願寺阿弥陀堂では蓮如のときまで行われ、その子実如から廃されていた(『本願寺作法之次第』)。また『知恩講私記』の写本も真宗寺院に江戸期のものが伝わっていた。真宗にあっても法流の源は法然上人であった。
廟堂が中核となり、のちに寺院化していったのが知恩院であるが、その名称と知恩講とが密接な関係にあったと私は推測している。知恩院は廟堂寺院として興起した。この知恩院の名称が知恩講と関係があるとするならば、『知恩講私記』の存在とその講の営みは、知恩院の濫觴にとって極めて重要な役割を果たしていたといわざるを得ない。大谷の法然上人廟堂に集まる〈知恩の念仏者〉によって建てられた精舎が知恩院なのである。
後でも述べるが、世には『勅修御伝』の名で知られる『法然上人行状絵図』(『四十八巻伝』、以下『勅修御伝』の呼称で統一する)にも『知恩講私記』の言文を用いた記事が出ているので、『勅修御伝』の編修時に『知恩講私記』がなんらかの形で伝わっていたと思われる。すなわち『勅修御伝』第三十八巻に、
この夢に驚きて、
彼の墳
墓に訪ね参れるに、
地景といい、
廟堂といい、事の
儀少しも
夢に違わざりければ、信心浅からずして、この
由を披露するに、誠を致し、歩みを運ぶ者、忌き
月を迎えて貴
賤市を
成し、亡
日を待ちて上
下袖そでを連ねけり。当時、
知恩
院といえるこれなり。
(聖典六・五九七)
とある。「当時」というのは「今、現在」という意味であるから、『勅修御伝』成立当時に、廟堂建立のころと同様に、源を尋ねる知恩の念仏者が多くいたのである。
一七日の結縁仏事
ところで、知恩院の基礎が固まったのは十四世紀のはじめ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてである。第八世如空、第九世舜昌の時代で、『勅修御伝』が編纂され、はるか後の時代にまで頒行流通させるため上人の版画御影が正和四年(一三一五)に安置された時期である。日蓮は正元元年(一二五九)の『守護国家論』で、「上人(法然)知恵第一の身として此書(選択集)を造り(中略)その義を訪ふ者には仮字(かなもじ)を以て選択の意を宣べ、或は法然上人の物語を
書し(中略)今の世の道俗は選択集を貴ぶが故に源空の影像を拜す」などとのべている。知恩院の興隆に象徴されるかのように、浄土宗教団の社会的弘通が法然上人滅後一世紀を経て顕著になった。
法然上人忌については、十四世紀に入ると祥月の忌日法要はすでに
一七日にわたって修されるのが恒例となっていた。
明経
道(経書専門)の博士家として知られた中原
師守は、
貞和四年(一三四九)一月十九日に、知恩院のこの日から始まる毎年の「結縁仏事」に参詣している。二十四日の日中法要に結縁し、説法を聴聞している。法然上人の七日間のいわゆる御忌法要は、普通大永四年(一五二四)に始まると考えられている。この年、御忌鳳
詔に、自今以後、京畿の門葉を集めて「一七昼夜、法然上人の御忌を修すべし」とあるからである。しかし、「師守記」によれば、これより二百年も古くから、七日間の宗祖の祥月法要に貴賤が参集する開かれた「結縁仏事」となっていたことがわかる。また知恩院そのものが道俗衆庶の帰信を基盤として成立していた精舎であったことが窺い知れるのである。
水源を尋ね、信根を培う
右の大永の御忌鳳詔は後柏原天皇が第二十五世存牛に出されたものであるが、それには、
朕聞く、流派をくむ者は緬にその源を尋ね、
枝葉を愛しむ者は力めてその根を培ふと。
蓋し知りぬ。知恩教院は浄宗創業の道場、祖師入滅の霊跡なりと。遺教は海
内に布り、属刹は国中に
遍し。苟くもその末流たる者、
寧んぞ本源を忘るべけん乎。宜しく京畿の門葉を
集会め、一七昼夜、法然上人の御忌を修せしむべき也。
追遠の誼想、応に
此のごとくなるべし。故に茲に詔示す。宜しく知悉すべし矣。
大永四年正月十八日
とある。
この後柏原天皇の詔示には、「尋源」とあわせ「培根」の語がある。『知恩講私記』には「培根」という直截な表現はないが、「尋源」「培根」は相互に他を振起させ、響きあう内容をもった語である。
「尋源」すなわち法然上人を尋ね、「培根」すなわち念仏の信根を培って、吉水の流れを乾上がらせ砂漠化させてはならない。もちろん絶対にそうあってはならない。そのようなことにならないように、古今の念仏者が尋源、培根の営為にどのようなものを拠り所にしたか。思い出すままに挙げてみよう。上人の在世中ならば、当然、問法、法談、消息、肖像、抄記を頂くなどが、また示寂後では述作、消息、遺物、遺跡、忌日法要などがある。二十五霊場などの巡拝は五五〇回忌を契機に「法然上人に
値遇(めぐりあう)」することを目的に始められている。
これらのなかで、尋源・培根の信仰策励にとって基本的な手立てになるものは、上人の生涯、事蹟、教説などを誤りなく知ることである。それを伝達してくれるのは、『選択集』をはじめとする述作、法語、消息などであり、今一つは伝記である。これらにより確かな事蹟、教説を学び取り、尋源、培根が少しでも果たしえることができよう。
すでにのべたように、事蹟、教説が語られた古いものの一つは『知恩講私記』である。これは法会という、開かれた場で営まれるだけに、その内容は源を尋ね根を培う人びとにとって信受されるにふさわしいものであった。