〈8〉現代往生人伝(九州地区)

念仏者 松野かちゑさん
 「助け給えと甘えてすがる」



○生い立ちから現在の寺へ
 自らが造り出す汚穢の世界を厭い、仏が造り出す浄らめる世界を仰いで生き続けることが出来、往生の素懐を遂げることが出来た幸せな数多の人の中の一人が、私の母、松野かちゑでありました。
 母は明治三十九年長崎県川棚に生まれ育ち、祖父の経営する郵便局の仕事をしている時分からも、修養の心は強く持っていたようで、 “怒りは敵と思え”等の人生訓を机に張り心に張って過ごす人でありました。
 縁を得て、長崎県生月町法善寺住職松野瑞運と結婚、三男二女をもうけ、随身・親戚・寄寓者の大所帯をきりもりし、昭和十九年、住職の三度目の応召を機に、後任を師匠の子に託して大島に引っ越し、二十年八月終戦となり、師父が無事帰還しました。
 そして住む寺、住む家なしの身の拠り所として母の実家である川棚の山間に、祖父の土地と家(水車小屋)を貰って、法源寺の看板を掲げ、畑を耕し乳牛一頭を飼育して生活の資にしつつ、檀家が一軒二軒と少しずつ増えてゆくという生活でした。昭和三十二年に土地交換分合にて、大村湾を望む風光明媚な現在の地を授かるも、貧しい中での五人の子育て、本堂建築等のやりくり苦労等は多かったことであります。


○仏さま大好き人間
しかし、信仰的には非常に恵まれて、師父が他寺布教を済ませて帰寺すると、
「どんなお話をなさったのですか」
と尋ねて、面倒臭がらずに詳しく話してくれるのを、無上の楽しみとして聴聞しておりました。  若輩の私の仏法についての話にも、否定の言葉は一つもなく、「そうね、そうね」と真摯に聞きとってくれておりました。兎に角、仏さまのお話が大好きな人間でありました。五重相伝も八度位は入行出来たことでした。
 師父の西化は昭和六十三年、八十六歳でありましたが、身心を仕えつくした思いがあったのか、特別に大泣きすることもなく、粛然と見送っておりました。しかし、没後の浄土への親近の思いは殊更で、愈々仏さま大好き人間になっておりました。お内仏さまをしげしげと惚れ惚れと仰ぎつつ、静やかに百八念珠を繰ってお念仏を申し続ける日々でありました。
 ある日の私との会話。
「発願文は大切な導きのお法(みのり)だから、少なくとも一日一度は必ず読まねばなりませんよね」
「そうよなあ、私しゃ一日に七辺はお唱えさして頂いとるよ」
 又ある時、自筆の名号の布きれを縫い付けてある肌襦袢を着替えしているのに出会い、
「へえ、貴方は仏好きとはいいながら、肌襦袢に迄も御名号ですか」と半ば揶揄して言うと、少し涙声で、
「だってえ、私しゃなあ一人じゃ居りきらんもん。一人じゃ生きて行ききらんもん。私しゃ仏さまから離れきらんもん。私しゃ仏さまに甘え込んどるとよ!」
との応えに、仏なしでも結構やって行けてると思い上がっている私の慢を知らされたと懐かしく思いました。


○生れさせて頂いてよかったぁ
又ある日、体調が悪いとて診察を待つ医院のベッドの上で、
「あらまあ、心配してですなあ、こぎゃん所迄おいでておくれてですなあ。済まんことです。なむあみだぶ、なむあみだぶ」
と念仏している。
 付添いの私には、仏さまのお姿は拝せないのであるが、母の光り輝く顔に思わず見惚れておりました。この様なことは数度ありました。
 又、〔生まれてきてよかったあ!生きてきてよかったあ!〕の文句を添えた仏誕の絵を見せると、九十の老母曰く、
「なむあみだーぶ、お陰お陰、生まれさして頂いてよかったあ。この齢まで生かされてきてよかったあ。よすぎたことじゃったあ。有り難かったあ。こぎゃん私ばって、なむあみだぶ、迎えておくれまっせえ! なむあみだぶー」
と、四苦八苦の人生も、お念仏に出会えたことで有り難いことであったと、自分の人生を宜(のたま)うのでありました。
 しかし、人生苦はまだまだ仲々尋常一様ではありませんでした。


○病床に臥す
母は趣味として花活けが大好きで、九十を過ぎても熱中出来ていました。夜中に彼女の部屋に電気が点いているので行ってみると花活け真最中なので、私が、
「この不良少女が! 夜遊び夜更かしするとは何事ですか!」
と注意することが再々でありました。
 平成十年七月、庭の花木を自分で切り取り、それを抱いて運んで毛虫の毒に当てられて身体中に湿疹、それが引き金となって発病、八月十六日盆施餓鬼会が済むと、病床に伏す態となりました。
 咳、呼吸、心臓が苦しそうな危機的状況の中、有縁の人々へのお礼の言葉、遺言、そして私達子供からの母へのお礼の言葉も済み、さあこれで安心して往生できる、安心して療養出来るということで、二十五日、国立川棚病院に入院、肺炎・血中酸素極少量、心臓もいつの間にか心筋梗塞をおこしていたので乱れに乱れている。
 本人は往生の覚悟をしているので高齢故無理な検査治療は避けて欲しいとの注文付きで医療をお願いする。担当医師は少ない検査データの中から模索しての治療、母に言わせると、
「あれやこれや考えて一生懸命にしてくださる」
看護師さんの看護には、
「こういう劣等生の私を、てっとり早く、ちゃんちゃんと、しかも丁重に扱ってくださって、ようと、おしもまできれいにしてくださってなあ」
 そして、五人の子供家族一丸の介護も含めて、
「この上の有り難さってあるもんか、いっかかって(総動員して)やってくださる」
 孫が痰拭きのティッシュをとってやっただけで、
「よすぎたことう」
の言葉。
 一人の弱者に百千の慈愛が集中する有り難さを感じている姿を見て、尊いなあと思っていました。


○慚愧の涙
そんな折、隣りのベッドの大柄なお婆さんの大きな叫び声を聞かされることが度々ありました。彼女の息子さんは度々訪れるのですが、姿が見えないと息子の名を呼び勝手気ままな悪口雑言をするのです。余りの大声と放言に、つい苦笑したものでしたが、母は笑いませんでした。
「あの方は患者の本当の気持を代弁してくださっている。わたしもあがん大きか声で叫びたかと。気持のわかるー」
と言いました。
 果たして、ある日病室に訪れると、母がしくしく泣いている。
「どうして泣くのですか」
「あのなあ、これだけ人さまは他人のためを思うて一生懸命にやってくださっているというのに、私はといえば、自分のきつさ・痛さ・苦しさにかまけて、自分だけのことにかかずらって、自分だけのことに引きずり回されている。情けなかあ。遣る瀬もなかあ。それをどうしようも出来ん」
とコンクリートみたいな自我に執われたどうしようもない自分、そしてそれをどうしようも出来ない自分であると、徹底的に気付かされて慚愧の涙を流しているのです。
「そんな人間は、人間として落第ですねえ」
「うん落第!」
「人間としてつまらん、零点ですねぇ」
「うん零点!」
と益々泣く。
「そこですたい。零点の私に、百点・万点のお念仏のおすくいでしょうが!」
「うんうん、そうじゃった。そうじゃった。なむあみだぶ、なむあみだぶ」
と、又お念仏に戻るのでした。
「瑞海さん、どうして今度は、(こんなに苦しいのに)いつものごと、お現れてくださらんとじゃろか」
「そんな、貴女は贅沢ですよ。一番切羽詰った時にお姿を現して来迎くださるのが一般です。貴女は特別待遇だったのですよ。まだまだですよ」
 母の荒い呼吸に合せて「一紙小消息」、「発願文」と、一語一句ずつ区切って唱和する。日課のお勤めはお陰で臨終の夕に至るまで出来たことでした。


○助け給へと甘えてすがる
九月八日、個室に移る。沢山の点滴、酸素吸入が九→八→五→三となって病状好転の模様のそんなある日、
「漢文のお経さまはよう出来とるなあ。簡潔でしかも御力があるねえ。光明遍照の文は、今迄はお勤めの中継ぎ、順序として言わねばならぬことにして簡単に通り越していたが、 ?光明遍照?でおいでておくれるもんなあ。今までおいでておくれんおくれんと思うていたが、なあんの、 ?光明遍照”の時は手っ取り早うおいでとると。光明遍照(手を拡げる)十方世界念仏衆生(手を胸に)摂取不捨あ(手を下腹へ)なむあみだぶなむあみだぶ。漢文のお経の言葉響き通りに現れてくださるなあ」
 何度も何度も光明遍照の文を唱え、そして涙するのでした。
 元祖さまの、妄念が凡夫の地体であるとの御示し通り、苦しみ痛みの中、妄念が出ては、なむあみだぶ、夢にうなされては、なむあみだぶ、とお念仏縋りの療養が続きました。
 十一月二十九日夜中、涙ぐんで「なむあみだぶ」をしているその口にビガーをポイと入れてやると、
「ああ残念、瑞海さんが飴をくれたから念仏が途絶えて、仏さまが消えられた。瑞海さんもたまにはいらんことをするなあ。ハハハ。珍しいこともあるもんじゃなあ」
 十二月二日、九十九日ぶりの帰宅。車椅子のままお内仏を拝む。
「世界一の如来さま!」
と涙ながらにお念仏。
 同五日、病院に戻る。
 十二月九日、胸の痛み、体の苦しみあり、
「嗚呼、私のこの苦しみを誰にもさせたくない。私だけにしてください。私だけで終わりにしてください。お許しください。堪忍堪忍、助けてください」
の連続、そして念仏でした。
 十二月二十七日、
「どうして苦しまねばならんとかね?」
「かちゑが十方界に入りこんで、苦の衆生を救摂するためのお勉強ですたい」
「納得。こんな時間が持てるのが有り難かなあ」
「どうにも解らんことがあるとさね。こんな病気をしている自分と、そうでない自分とがおって、それが一つにならん。それがどうしても解らん」 「それが解ったら私に教えてください」
と言うと、ニコッと笑いました。
 明けて正月十二日夜、ビックリする程静かに安眠、夜中目覚めて「メモ帳、メモ帳」と言う。
 欠氷小匙二口、そのまま安眠。
 翌十三日朝七時、静かに眠っている様のまま呼吸が薄くなり、いつ知れず止まる。お十念を耳にふきこむ。実に静かに静かに九十二年のこの世の生を納めました。
 前夜までは身心の苦痛耐え難いものがあった四カ月半、臨終には「発願文」の願い通り、身心に諸々の苦痛なく快楽にして浄土往生さして頂きました。安らぎに満ちた面にその験しを感じました。
【只頼む。只申す。南無阿弥陀仏。助け給へと甘えてすがる。かちゑ。自らの往生を祈願して】
の自筆が仏壇に納められてありました。