〈7〉現代往生人伝(中四国地区)
念仏者 藤堂月子さん
「御来迎往生の事」
ただの時よくよく申しおきたる念仏によりて、かならず仏は来迎し給うなり。仏の来たり現じ給えるを見て、正念には住すと申すべきなり。
(法然上人「浄土宗略抄」)
○はじめに
合掌 謹んで、法然上人さまの念仏信仰普及の為に故藤堂月子様の御来迎―正念―往生の実例をご生前の慈愛に満ちたお徳を偲びつつ報告させていただきます。
○生い立ちから寺庭婦人へ
藤堂月子さんは旧姓を佐竹といった。大正四年八月十六日、舞鶴で、父・敬吉(大垣藩に仕えた士族)と、母なつとの間に二女として生まれられた。美しい月夜に生まれたので月子と名づけられた。
幼少より絵を好み画才があった。小柄で生来、心臓弁膜症で外見はひ弱そうに見えたが、女学校時代には、富士山に登るぐらいの元気さがあった。しかし、彼女は医師から「四十歳まで生きられない」と言われていたので、自然に死を想い、人生の問題を深く考えることがあった。
彼女の父が海軍省の技師であったので千葉県市川市へ転居してから、東京府立第七高等女学校に学び、更に東京女子美術専門学校(現、女子美大)に進学した。彼女にとって大好きな絵画を本格的に勉強することは長年の夢であった。念願が叶った喜びもあったが、やはり自分が心臓弁膜症であるから死を忘れては生きることは出来なかった。多感な大学生であっただけに生死の問題を何とか解決したいという想いを深めていた頃、折りしも闇夜に灯火を見つけた如く、念仏のご縁に遇い光明会に入会し、ひたすら念仏に励まれた。その頃図らずも念仏会のご縁で出会った故藤堂俊章師(田辺市竜泉寺前住職、晩年大本山善導寺ご法主)と交際が始まり大学卒業後、昭和十五年一月に結婚された。
○観音様のようなお人柄
� 在家から寺に嫁ぎ、寺庭婦人となってからは、ご本尊阿弥陀如来さまにお仕えし、数百軒の檀家の皆さまに慈愛で接し、母としては俊隆師(現、竜泉寺住職)、俊英師(帰白院住職、佛大教授)、道子さん、章子さんの四人の子育てと、妻としては、年間二百日間、全国伝道に東奔西走される夫俊章師をささえ、早朝から夜遅くまで、働きどうしの毎日であった。御生前中、実家に帰ったのはご両親がお亡くなりになった時だけであった。
多忙を極めても、お子さま達の授業参観には足を運ばれた。授業参観中、いつも居眠りばかりしているとお子さまに笑われたこともあった。檀家さまで、殊に苦しみや悲しみを抱えておられる方がお参りされると家族の食事を作るのを後回しにしてでも話を聞いてあげることがよくあった。
私が大学の二回生の夏、お盆の棚経の手伝いに参ったころ、白いエプロン姿の奥さまが私の足の親指に巻いていた血染めの包帯をご覧になって、
「山上さん、痛かったかでしょう」
とおっしゃって涙をポロポロと落とされたことがあった。
その時私は、月子奥さまが人の悲しみを本当に自分の悲しみとして解るお心を持った方だなと実感した。私だけでなく、他の弟子達にも慈愛に満ちた心で接しておられた。
ある寺方は「誠に是れ濁世の善女人であり、在家の出家だ」と、また、ある総代さんは「常に謙譲身を持せられ、人に接するに温情溢るる如く誠に菩薩のような人柄であられました。従って檀家の敬愛を一身に集められておりました」と月子寺庭婦人を偲び語っておられた。
古今の往生伝で語られる往生者たちの人柄に「慈悲深い人」が多いが、まさに月子さんは観音さまのようなお人柄であった。
○入院
月子さんが、五十歳のころ、長年の過労が積もったのか、軽い狭心症や心臓性喘息で三度、入退院を繰り返した。その度に医師が退院する条件として、入院中と同様に静養しなければならないと言ったが、寺と家のために命を捧げる多忙な生活を変えることはなかった。
五十六歳の二月十八日、早朝から吐き気と腹痛を訴えられた。十九日が定期受診なので病院に行くのを我慢しておられたが、ついに痛みを耐えきれず、紀南病院に行き受診した。医師に直ちに入院と言われて、バリウムを飲んだりして検査したが病名は分からなかった。十九日、外科医三人の診察によって、病名は腸間膜動脈血栓症と判明した。心臓が非常に衰弱しているので手術ができないと告知された。
○行くところは分かっているか
月子さんは入院当初はあと四、五年生きていたいとおっしゃっておられた。それは、その年の秋に長男俊隆師の晋山式、次男俊英師の晋山式、長女道子さんの挙式等の慶事が目白押しに控えていたからだった。二年後には二女の章子さんの大学進学などお子さんの成長を母親として見届けたいと思っておられた。
しかし、二十三日から二十四日には様態がだんだんと悪化してゆくうちに死を自ら覚悟し、往生浄土を決心された。
夫・俊章師が
「行くところは分かっているか」
と尋ねられると、
「お父さんに教えていただいてますから、よく分かっています」
とはっきり答えられた。
そして、治療にあたった医師や看護士にお礼を言われ、注射や酸素吸入等の不自然な処置は止めて欲しいと懇願された。そして死期が迫っているのに気づかれて、
「お檀家の皆さまには大変お世話になったのに十分なお報いが出来ずに申し訳けありませんがよろしくお伝えください。おじさま方によろしく。お婆ちゃんの最後を看取ってあげられなくてすみません。お婆ちゃんは朗らかな方だった」
と申された。
そして、四人のお子さん一人一人を呼んで、よい所を誉めてみんな仲良くしてしっかりやって欲しいと申されて一人ずつ手を握ってお別れをされた。
○御来迎を受けて
二十五日午前二時ごろ、月子さんの息遣いがとても荒くなってきたので、いよいよ臨終が近いと思われた夫・俊章師は両隣の病室を気遣いながら臨終行儀を始められた。
月子さんの臨終の枕辺には月子さんを囲むようにして、四人のお子さま達とご主人がいて、奥さまのハァー、ハァーと呼吸される息に合わせてナーム、アーミ、ダーブと皆さまで念仏を称えられた。
しばらくして皆さまの念仏の声に促されて、月子さんも苦しい息遣いの状態であったが少しずつお念仏が称えられるようになった。一字一呼吸の念仏を続けていくうちに、月子さんの目が天上の方へ注がれた。その目はまるで三昧仏の目のようであった。
念仏の合間に、
「向こう岸にゆきます」
しばらくして、
「濁った水で、急です」
また、しばらくして、
「ああ、蓮が流れてきました。あれに乗るのです」
また、しばらくして、
「向こうで、阿弥陀さまが笑って待っていてくださる」
そして、しばらくして、
「あぁ、きれいだ」
「薄桃色、薄紫色、いろいろ美しい花が舞っておりてきます」
「おじいさん、おばあさんの待っておられる阿弥陀さまのお膝元へ一足先に帰らせていただきます。ありがとうございました。何もしてあげられなくてすみませんでした」
と断片ながらはっきりと語られた。
最後に御仏を目の当たりに拝んでいるかのように合掌をされた。
御来迎のお姿を拝んでからは、ぴたりと苦しい息が止み、皆さんの念仏の声を借りないで、ご自分でお念仏を称えることができた。月子さんは念仏を称え合掌して御仏のご来迎をたまわりながら、正念に住して浄土へ旅立たれた。ご生前次男俊英師に撮影させた遺影を残して。春暁の空に清らかな月が輝き、崇高な一瞬であった。
時に昭和四十七年二月二十五日午前三時三十五分。五十六歳。
清淨院光譽妙月聖容大姉 藤堂月子令室往生
紀南病院(和歌山県田辺市港五百十番地)にて
合掌 南無阿弥陀仏 和南
○資料について
資料は、左記の通り。
(1)竜泉寺報『光』第44号 昭和四十七年四月一日発行
(2)『浄土』第38巻第12号 「私のこの一年」藤堂俊章師
(3)『発願文入門』 藤堂俊章著 浄土宗布教師会近畿支部発行
(4)『五重勧誡』 藤堂俊章述 大本山増上寺布教師会
(5)取材 平成十七年二月十六日 午前十時 帰白院にて月子氏次男俊英師(佛教大学教授)にご母堂さまの臨終体験等を詳しく拝聴した。
また、(1)から(3)の資料もご提供してくださった。
○おわりに
最近、臨死体験の研究もかなり進んでいる。光体験とか至福体験とか花園体験などが報告されている。しかし、臨死体験と宗教体験の違いをはっきりと区別できる事例は極めて少ないが、月子さんのようにはっきりと阿弥陀仏のご来迎を認識して語り、しかもそれを聞いている人がはっきりと確認している事例は少ない。
既に藤堂俊章師が、資料にある如く月子ご令室の来迎往生を公表されているのでご存知の方が多いと思う。それでも敢えて、ご子息上人方の了解を得て、ここに現代往生人伝の事例として書いた理由はそれを紹介する私が出会った方であること、そして、来迎―正念―往生の確認がはっきりしていること、そしてその事例の証言者が信頼のおける方であること、の三つの条件が揃っていたからである。そして、一人でも多くの方にこの阿弥陀仏の救済の真実をお伝えし来迎往生を願う現代人がたくさん出られることを切に願う次第である。