〈6〉現代往生人伝(近畿地区)
念仏者 ある老僧
「ある老僧と来迎正念往生」
○死に臨んで思う三つのこと
「私は、もう助からん」と思ったとき、人はどんなことを考えるのでしょうか?
放射線科の山本先生は、患者さんを見送った体験を通して、「患者さんの誰もが、三つのことを考える」と言って、次のように話されました。
一つは、残していく家族への愛着心が強くなることです。主人だと妻子のこと。奥さんだと主人や子どものこと。私が死んだ後、残った家族は、上手にやっていけるだろうかと色々心配をする。
二つ目は、自分の体に対する執着心。「この私は、何のため人間に生まれてきたのか?」と自問自答するそうです。心の半分では、「定年まで会社勤めをした。家を建てた。子どもを育ててきた。色々なところへ旅行もした」と、今までしてきたことを思い浮かべると、生きてきたかいがあったと思うそうです。しかし、もう一方では、「考えてみるに私は、何もしてこなかったのではないか」とも、思うのだそうです。私は何もしてこなかったという心と、さまざまなことをしてきたという心とが揺れ動いて、自分の体と心が喪失していくことに、とてつもない不安と恐怖を持つというのです。
三番目は、死後への不安。死んだら私は、後どうなるのだろうかと考える。「死んだらおしまい」と平生は思っている人でも、いざこの私がもうすぐ死ぬとなると、そうは言ってはおれなくなる。死んだらどこへ行くのかということに対して心が決まっていない人は、必ず夜中、眠れずに悩む日々が続く。
以上、三つのことを誰もが考えると、先生が言っておられました。
○三種の愛心
法然上人も、やはり同じことを、『往生浄土用心』に、
死の苦しみは本願を信じて往生を願う行者ものがれられぬ上に、『三種の愛心』が おこって正念を失う。
と、述べられています。
正念とは〈仏道における本質的な正しい思い〉です。浄土教では、心を乱すことなく一心に信心をもって念仏することを指しているのですが、『三種の愛心』がおこって正念を失うというのです。
この『三種の愛心』とは、
第一『境界愛』(愛する妻子や財産、やり残した仕事などへの未練、愛着心)
第二『自体愛』(一番愛しい、この自分。自分の体・心が喪失する不安と恐怖心。藁にすがってでも生きたい執着心)
第三『当生愛』(当生とは当来の世、未来の命のこと。死後どこへ行くのか分からない不安。死後は無の世界か、六道をさ迷うのか、確かな明るい目的が定まらない不安と恐怖で正しく考えられない姿)
法然上人は死に臨んだ凡夫の心理状態を見られて、この『三種の愛心』は、医者は勿論、善知識の力でも除くことが難しいと申されています。
それでは最後、凡夫の私達は正念往生ができないのかというと、決してそうではありません。
法然上人は、「ただみ仏の御力によってのみ除かれる」と仰せられているのであります。身体・心の苦悩にせめられて、とうてい正念になれず、そのために阿弥陀仏の御来迎を頂けないと心配する我等の考え方の誤りを正して、
「まず正念に住して念仏申さん時に仏が来迎するのではなくして、阿弥陀ほとけの来迎に預かって、三種の愛心をのぞき、正念になされまいらせて往生する」とお示し下さっているのであります。
凡夫の私どもは、臨終間際正念にして阿弥陀仏の来迎をいただくことなぞ到底できません。自力で正念にして往生はできないです。できないことを既に阿弥陀さまが知っておいでになられて、まず最初に阿弥陀仏の来迎があるのである、先手で阿弥陀ほとけの来迎に預かるがゆえに正念往生させていただけてくるわけである、と述べています。
凡夫救済者たる阿弥陀仏の本願力が先に発動されるわけです。大慈悲なる如来さまの御来迎を先に頂くが故に、凡夫の私が絶対必ず正念往生させていただけるのであります。『正念来迎』ではなくして、『来迎正念』なのです。ですから、まず阿弥陀仏の来迎を深く信じて念仏を喜ばせていただくことが大切なのだと言っているわけです。死に行く者にとりましては、この言葉はとっても有り難く受け止められ、必ず救いの杖となるはずです。
来迎の 上の正念 有りがたや
心乱るを 祐け給えば
であります。
○老僧の辞世のことば
さて、平成十一年に、ある老僧が他界されました。
在家から出家なされたお方で、享年九十三歳。その老僧が九十歳のときに書かれた左記の如き一枚の紙が出てきました。
今、仮に千載一遇の人生、執着するものではない。この人生、この世は仮の世なんだから。
永遠不変真実の生活、それは真の世界、あこがれのお浄土の生活である。
お浄土こそは故郷である。お浄土の生活こそ理想で、その故郷に帰る準備に、今、心を砕いている。
どうしよう。どうすれば良いのだろう。なるべく軽い荷物にまとめ旅立ちたいと思う。(南無阿弥陀仏)
先ず左様ならのお別れの挨拶には、お父様お母さん、よくも私を人間に生まれさせて下さった。偏にこれも目に見えぬ大きなお力、み仏様のお恵みによって人と生まれさせて頂いた、その喜びを感謝。そして、今日只今も私を支援して下さっている周囲の人々、又は子や孫の力、或いは五官にふれる一切の森羅万象のお陰、或いは心に響く声なき声など、有り難いこと勿体無いこと、すみませんと感謝で一杯です。有り難う、左様なら。
私の人生に受けてきた限りない御恩を思えば、唯、有り難くて逆らう気など間違いである。
誠の道には逆らいません。どこまでも従いますというすなおな心と頑固を離れた明るい愉快な心を持ちつづけながら、みんな仲良くさせて頂き、身も心も大切に達者で居られるように努めなければ申し訳ない。出来る限り長生きして御恩に報いるよう心がけよう。名誉や地位や財産に迷うは邪道である。
我が子よ、孫よ。みんな仲良く、愉快に達者で長生きしておくれ。それがお浄土へつづく明るい道なのだから。
みんな ありがとう ナムアミダ佛
平成八年二月十七日
文字は、震え、曲がってもいるが、とても力強い線で書かれていました。安心しきった自分の気持ちが述べられていると共に、親としての立場も、けっして忘れていない。老いて、病んでも、なお聡明な文章であります。
三人の息子も、その孫も僧侶になられて、それぞれの立場で立派に活躍されている。この一枚の紙に綴られた老僧の思いと願い。老いていく私たちの指針となりましょう。
○来迎正念の浄土往生
老僧は、臨終間際、息が止まったり、また息をし出すという状態になったそうです。愛心もおこっていたかも知れません。しかし、ご来迎も確実でした。
身内のものが、
「おじいちゃん、ガンバレ!」
という言葉を遮って、ご長男の
「もう、往かしてあげようよ」
との言葉にしたがって、みんなで念仏申したそうです。
やがて子や孫たちの念仏の声に乗せられて老僧、九十三歳の秋、しずかに旅立っていかれました。まさに、《来迎正念の浄土往生》でした。
この老僧の文章をいただくとき、
「念仏の中に親を送らせていただいて、お念仏が、こんなにも有り難いとは知らなかった。念仏の有り難さを体験さしていただきました」と、長男さまが、お話ししてくださりました。
臨終間際は、自分の力でもって正念(邪念を離れて正しい道を思い考えること)でいられないでしょう。
幸いにも阿弥陀さまの大慈悲心が先手でもって、まず先に御来迎してくださるが故に、おかげさまで凡夫の私が正念にして大往生ができるわけであって、ここに念仏の尊さ、有り難さがあるわけです。
先に阿弥陀さまのご来迎があるわけですから何時、何処で、どのような方法でお迎えがきても、それはそれで有り難いわけです。何故ならば念仏申す者は、何時も仏さまと二人づれの関係であるからです。