〈4〉現代往生人伝(東海地区)
念仏者 リンさん
「ああいうふうに逝きたいね」
○墓参りがリンさんの日課
善導寺の西参道を、朝、リンさんが乳母車を押してやってくる。
乳母車とはいうものの、赤ちゃんを乗せているわけではない。乳母車には、赤ん坊のかわりに、お墓に供える花と、ろうそく・線香のお参りセットが載っている。
乳母車がないと多少おぼつかないであろう足取りで、ゆっくりと、西参道を進む。リンさんにとって、乳母車は?歩行補助器?なのだ。
乳母車をたよりに墓参りに来るのはさほど珍しくない。お参りセットのほかにハンドバッグを乳母車に載せておいて、墓参りのわずかなスキに盗られた人がいる。油断ならない時代である。
リンさんの家は、健脚の人なら、寺から二分の距離にある。財布やハンドバッグを携えてくる必要はない。
「おはようございます」
墓地前の駐車場を掃いているときリンさんの姿が見えたら、声をかける。
「・・・・・」
リンさんから、はかばかしい返事はかえってこない。
しかし、無愛想というわけではない。リンさんは、顔にかすかな笑みをうかべる。その笑みが、リンさんの挨拶である。
リンさんは、まず水場で手桶に水を汲む。手桶に半分くらいの水だが、リンさんにとって軽いとはいえない。一歩一歩、足取りはさらに慎重になる。
リンさんのお参りするH家の墓は参道から近い。
近いけれども、石段を三段登らなくてはならない。まず、手桶を上段に置いてから、右手を脇に添えて、石段を登る。一段、また一段、やっと登り終えて、あとは平地を三メートルほど進めばH家の墓にたどりつく。
花立ての花を新しいものに替え、ろうそく・線香を点し、ゆっくりと手を合わせる。何十年も続けてきた手続きである。一連の動作に淀みはない。
墓参りが終わると、ゆっくりと石段を下りて、手桶を水場に戻し、また乳母車を押して帰っていく。
○親譲りの働き者
明治四十二年生まれのリンさんは働き者で通っていた。子たち(子たちといっても、もう孫のいる歳だが)には、のんびりしているリンさんは記憶にない。
リンさんの連れ合いは運送会社勤務でほとんど家にいなかったので、家事はもとより、七反(約七〇アール)の田畑を耕作するのもリンさんの役割だった。
家事といっても、リンさんの若いころと今とでは様相がまったく違う。
朝早く起きて、まず井戸の水を汲む。カマドの火をくべる。はじめちょろちょろ中ぱっぱ、ご飯を炊く。おかずをつくり、味噌汁を用意する。子たちが起きてくる。朝食のときのちゃぶ台は、まるで戦場のようだ。
夭折した三人の男子を含めて四男五女に恵まれたリンさんは、子たちの世話だけでもめまぐるしい。下の子の面倒を見るのは、ようやく手のかからなくなった上の娘の役目だ。
連れ合いが仕事にでかけ、上の子を学校に送り出す。
洗濯や衣類の繕いだって、並大抵の量ではないし、もちろん電気洗濯機のある時代ではない。井戸水を汲み、タライの側面に洗濯板をたてかけ、腰を折ってもみ洗いをして汚れを落とす。また井戸水を汲んで何度も濯ぎ、濯ぎおわったら物干し竿に干す。
洗濯が一段落すると、田んぼと畑がリンさんを待っている。
乳飲み子の守りを姑にたのんで、リヤカーに(晩年はリヤカーから乳母車にかわったが)鍬や鎌など農機具を載せて、坂道を牽いていく。田植え機や耕運機はない。草取りはもとより種まきから収穫まで、腰をかがめての作業である。
リンさんの父親も近所で評判の働き者だったという。人並みはずれた勤勉ぶりは、父親譲りの血筋だったと思われる。からだを動かすことが苦にならなかったのだろう。
農作業から帰ると、夕飯の準備。夕飯のかたづけがすむと、衣服の繕いもしなければならない。毎日が八面六臂、獅子奮迅の仕事三昧。井戸水を汲んで風呂桶に入れ、薪をくべて風呂を沸かすのは、さすがに上の子にやらせる。
連れ合いのマサオさんが運転免許をとったのは、自動車を運転する人が町内にほとんどいないころだった。木炭車の時代から運転していたことがマサオさんの自慢だった。
男の子三人を幼くして亡くしたマサオさんとリンさんが、残った末の男子をなんとしても無事に育てたいと思ったのも無理はない。末っ子だけは特別扱いで、車の助手席に座らせたり、畑に出るとき、姉たちにリヤカーの後押しをさせ、末っ子ひとり荷台に乗せたりした。今となっては笑い話だが、リヤカーの後押しをさせられた姉は、「なんで、弟だけ?」と悔しがった思い出がある。
男の子を何人も育てた人に拾ってもらうと、その子は丈夫に育つ、という俗信をたよりに、しかるべき人が通りかかるときに合わせて、末っ子を道端に置いたこともあるという。そうした霊験もあってか末の男子は順調に成長した。
マサオさんは、運送会社を定年退職してまもなく、脳梗塞で倒れた。
寝たきりとまではいかず、なんとか身の回りのことは自分でできたが、連れ合いの世話も含めて、リンさんは後半生も休むいとまがない。
休むどころか、あらたに織物の機械を二台、自宅に設置してセル織りの仕事をはじめた。
繊維産業が好況の時代、口利きをする人が近くにいて、一宮市の織物会社の下請け仕事をこなし、織りあげた反物をまとめて会社に納めたという。子たちに手がかからなくなって“余裕”ができたころのことである。
三十人余りで米寿を祝う
脳梗塞で倒れて十三年、マサオさんが亡くなった。
それ以前も、家事や農作業の合間に、墓参りをしていたが、マサオさんが亡くなってから墓を建て替え、墓参りはリンさんの日課になった。
八十歳を過ぎて、それまで病気ひとつせず働きづめだったリンさんのからだも、不如意なことが出てきた。
やむをえないときだけ、墓参りを嫁のA子さんにたのんだ。
平成五年の五重相伝を受けるつもりで申し込んだが、ちょうど膝を傷めて入院することになった。A子さんに代わりに参加してもらって、なんとか誉号をもらうことができた。肺炎を起こしたり、心臓の不調で短期の入院をすることも二、三度あった。
地元の料理屋で開いた米寿の祝いには、六人の子どもはもちろんだが、十六人の孫と十五人の曾孫のほとんどが集まって、リンさんは上機嫌だった。
できあがった米寿祝賀の記念写真を見て、リンさんは、
「ワシが死んだときは、この写真で」
と言った。
○最期の日、近所に挨拶まわり
平成十三年五月四日、いつものように庭の草取りをしたあと、午後、リンさんは乳母車を押して散歩がてら近所を回った。
近所の数軒の玄関わきで、乳母車につかまったまま馴染みの人たちと立ち話をして家へ戻った。
「ちょっと熱があるかな」
と言いながらも、リンさんはいつものように家族と夕飯を済ませた。
晩酌でほどよく酔った息子は、翌日の勤務に備えて先に床についた。
リンさんは助けを借りずにひとりで風呂に入った。からだを洗い、浴槽から出て、衣類を身につける途中で倒れたらしい。
「お婆さんが大変よ」
娘の声で起こされた息子は、慌てて救急車を呼んだが、リンさんの意識は戻らなかった。九十一年八カ月の生涯だった。
「昨日、お別れの挨拶に回ったんだねぇ」
通夜の席で、近所の人たちが口々に言った。
リンさんの最期のいきさつを聞いたある人が、
「ああいうふうに逝きたいねぇ」
と言った。
みんな素直にうなずいた。