〈2〉現代往生人伝(東北地区)
念仏者 太田こう氏
「人のお浄土詣るは、周りにもしあわせを与える」
○臨終の別時念仏
祖母太田こうは九十八歳で命終した。昭和五十二(一九七七)年八月十九日。苦難とも波乱とも、それらを背負って一家の柱として生き、念仏に生かされた生涯であった。
命終二日前の十七日午後二時過ぎ、孫であり三十七歳であった私、與八郎は、こうの床の脇に横になった。こうは真顔で、
「お迎えがあったら、ひとりで行くのはいやだ」
という。一瞬驚いたが、私は、
「まだまだ太田の家の仕事があり、一緒には行けない」
と応える。こうは顔を曇らせ、
「どうしたらいいべ(どうしたらよいだろうね)」
と更に尋ねる。
「ばあちゃん、ばあちゃんは俺たち小さい頃から、困った時は、南無阿弥陀仏と称えると、お仏さまが必ず助けてくれるんだと、言ってきたっちゃ(いつも語ってたではないですか)。そうしてみたら」
と応えた。
こうの念仏が始まった。夕食を挟み更にずーっと続いた。翌十八日朝、脇に休んだ母みゑ子に尋ねると、深夜二時には声がかすれてしまい、それからは母が代わって称え、朝五時に眠りについたという。この日、日中はよく休んでいたが、夜九時、様子がおかしく内科医の往診を受けた。心音が弱くかなり注意を要するとのことで、寝ずの番は母と長姉が加わった。
零時丁度、階下からの長姉の呼び声に、こうのもとに馳せた。
私はいつものように、こうの両脇から手を差し入れて抱き込み、両でかわるがわる擦りして、
「ゆっくり安すまいん(ゆっくり安んで下さいね)」
といった。
こうはこれまでに見せたことのない笑みをたたえ、下あごを二、三度軽く突き出すいつもの仕草で応え、眠りに入った。孫全員が集まって来たが、再び目を開けることはなく、午前四時三十五分、内科医から死が告げられた。
私は辛かったが悲しくはなかった。
悲しくなかったのは、晩年、「行きたい所は全て訪ね、食べたい見たいは何もない」、「お迎えはいつでもいい」と辞世を詠んだこうの言葉を聞いていたからばかりではない。こう自身が、間違いなく浄土に招かれると信じ切っていたし、家の中の誰もが普段や病いの床についてからも、こうが浄土に招かれる手伝いができた喜びを得たためだと、思っていたからである。
「人のお浄土詣るは、周りにもしあわせを与える」と言い換えできる。
〈こうの辞世〉
うつし世を 無病ももとせ ながらえて
心のこさず かえるうれしさ
住みなれし 千賀の浦をば あとに見て
又たちかえる 父のふるさと
ありがたや 彌陀の本願 むねにおき
目出度くかへる 今日のうれしさ
寿毎に さくうつくしき 花よりも
心の中にひらくれんげを
ゆめの世を うきつしずみつ ながらえて
今日は別れか 皆に御礼い
頼みおく 吾がなきあとも 足しげく
すぎしあの日を 笑いうかべて
○五重相伝を受けたお姐(ねえ)さん
こうは、明治十二(一八七九)年二月一日、石巻市、西光寺檀徒松田庄助、たつの三女として出生。捕鯨業を営み、かなり裕福な家庭だったが、幼い時母と死別。継母との仲は随分辛いものがあったと聞いている。明治三十(一八九七)年五月、塩釜市、雲上寺檀徒の太田の家に十八歳で嫁した。両寺とも浄土宗であることを自慢していた。
こうの浄土信仰がいつ頃から、いかなる理由で深まったかは今もって解らない。四十五歳の時、大正十三(一九二四)年十月二十二日からの三日間、仙台市新坂通、昌繁寺(佐藤瑞明住職代)で開筵された五重相伝を受けた。開宗七百五十年を記念して全国規模で授戒会、五重相伝会が開かれたが、宮城教区は大本山増上寺法主、道重信教大僧正御親教、御勧誡だった。ちなみに趣意書は次のように記されている。
五重相傳とは五種血脈の相傳にして 佛祖傳來祖師相承して今日に至る念佛往生の功晥寬舟仰生活の根底なり 道重上人は近年擧宗一致を以て邊僻の貧寺より一躍大本山法主に推戴せられ 今や學晥寬挙備の鄕僧として帝都佛教界を代表し特に七十餘年來童貞の維持者として識者の尊敬を集めらる 冀は大方の善男善女上人の相傳を稟けられ自他現當の両益を完からしめんことを至希至ヒ疾
大正十三年十月
受者は県内二十二カ寺五百二名、県外二カ寺十四名だった。
こうの年代の平均寿命からして、決して早い相伝入行とは思えない。もしも、もっと早い時期に五重相伝会が開筵されていたなら、浄土宗信徒の出身であることに誇りをもっていた本人ゆえ、きっといちばん先の受者になっていたのではないだろうか。
太田は代々みそ、しょうゆの醸造販売業。当時の商家の従業員は、通勤よりも住み込みが多く大家族。こうは、たすきがけと着物の裾を巻き上げ帯に挟む?裾ぱしょり”で寝ることもしばしばだったという。生来の健丈夫と利発さで、商才は四歳年上の夫に勝ったとも聞く。従業員に睨みはきくが、よく慕われた商家の「お姐(ねえ)さん」の立場を確かなものにしていた。大正末に工場を建て替え、夫は中風で伏せていたが、昭和五(一九三〇)年には店舗と自宅を新築した。
気丈なこうではあったが子供に恵まれず、私の父母が養子になったのは、こうが五十三歳の時である。夫は昭和十三(一九三八)年十二月、六十三歳で他界した。
こうの生涯で最大の誤算は、昭和二十二(一九四七)年十二月、私の父の急逝だった。戦中・戦後の混乱期、みそ、しょうゆの統制時代は何とかなったものの、同二十四(一九四九)年の自由販売(当時はそう称された)を迎えて、業界は一変し、母は家業に専念、私たち孫五人の養育は、子育て経験のないこうの役目となった。
○孫への遺産と信心
私が物心のついた頃、こうの日常生活は常に一定で決まっていた。起床後、身支度を整えると神棚前に正座し声高に祝詞を奏上。仏壇前に正座し約三十分の勤行。読経の声で家中はその日のこうの体調を感じ取る。「送仏偈」の後、声をひそめて何事かを願うこと七、八分である。夕刻も午後五時に勤行が始まる。風邪を引き、発熱、声がかすれていても朝の身支度、勤行、朝食を済ませてから再び床に休む。終生、一日として欠かすことはなかった。この日常生活の姿は、孫への最高の遺産となった。
就寝前、切り炉の灰に「おんばさんばえんてんしやちんそわか」(注・おんばさんばえんじゃちんそわか。の訛りではないか)のご真言を唱え、同時に炉の灰に火箸で「上」の文字を書き、又、出入り口の内扉にも貼り出していた。火難、盗難逃れのまじないのようであったが、生涯説明はしなかった。
又、占いの資格を持っていたのだろうか。資格証の類は見当たらないが、文庫蔵に関係書物十数冊が残っている。家相、人相、手相、墓相等々に関心をもち、本格的に学ぶのであれば勧めるが、興味本位の知識では、周囲に害を及ぼすと語っていた。
○エピソード
こんなことがあった。二度、店舗、自宅で映画のロケーションがあり、二度目は小林旭氏。こうが横座に座っていると小林氏は正面に正座して「おばあさんでいらっしゃいますか。お世話になります。お元気で長生きして下さい」と声をかけた。こうは「今時、律儀で礼儀正しい男だ。将来必ず出世する」といった。
長唄が好きだったこうは、昭和三十年代のラジオ、木製の五球スーパーに耳を擦りつけ目を閉じて聞き入る。だが、商家の後継者は歌舞音曲は全くの道楽だといい、私がギターやオルガンを弾くのも止めさせた。
美空ひばりのこぶしが、泣き声に聞こえるらしく、縁起が悪いといってスイッチを切る。ただひとり三橋美智也は、人の心を唄うとのことで曲の最後まで聞くこともあった。
歌舞伎がテレビで放映されると「どれっしゃ」と掛け声で、自分のための番組だと人払いする。熱心に見ているが午後九時まで。残り僅かと判っていても、中途で入浴の準備を始める。自制心のなせるものと家族は感心していた。
○いつでも、どこでも高声の念仏
私たち五人の孫は、こうのおかげで小学校を終える頃には、「香偈」「三宝礼」から「送仏偈」まで、意味は解らなかったが空んじることができた。線香をあげ打鐘を三度の「かんかんしてから」の習慣は今に続いている。
孫たちにとり最大の難は、こうのお供であった。藩命で始められた天明飢饉餓死者を供養する「大回向」の帰り道での寿司は楽しみだったが、お勤め中での大声で称える、こうの十念は堂内に響き、子供には恥ずかしくて仕方がなかった。墓参の際も、本堂や自家、他家の墓地を問わずひざまづき声高に「心経」十念を称える。墓参者たちがこちらを注視し、お供はうつむき、こうが立ち上がるのを待つのだった。しかし全員は次第に慣れた。
こうの読書は、視力が無くなるまでしっかりしており、新聞、週刊誌、月刊誌等、家人が放って置いたものを手にした。音読の後にきまってコメント(注釈)があった。
しかしこうは、決してむずかしいことは語らなかった。この世は仮り=借りの世であり、生を受けたものは借家の家賃つまり社会や家族への責任を果たし逝くべきだという。そして真の住家である浄土に生まれさせていただくのだと静かに語り、食前に、寝床で、浴槽で、いついかなる所でも称名し、一心に念仏を称えた。その後ろ姿を私たちに残してくれた。
信仰に裏打ちされたこうの生き方や決断は、孫のキリスト教受洗に、深い理解を示したものだったと思う。
○受洗への深い理解
私の末弟は幼稚園の頃からキリスト教会の日曜学校に通い、中、高、大学もミッションスクールで学び教会礼拝にも熱心だった。十九歳の時、受洗するという。家中の者は皆、気が進まなかったし、母は大反対だった。
こうは数日間考え込んでいたようだったが最初に賛成した。高い山に登ることを思えという。人が生きるということは、一歩一歩、山頂を目指して登るに似る。途中、辛いこと喜びも苦しいこともあるはずだ。その際、信仰は大いに役立つし、末弟と自分(こう)とは登り口こそ違ったが、目指すは一緒。途中の心変わりだけは困る。受洗したら大いに励みなさいと、噛んで含むように語った。こうのこの言葉で家中の心が決まった。
末弟は受洗前と変わらず、寺、実家を問わず香を焚き仏前で合掌している。
こうは、眉をつりあげ恐ろしい形相を見せたこともあるし、家中の者全てを和ませる笑顔も持ち合わせていた。私の父の思いもよらない早世、生家のその後の末等々、こうの生涯を顧みて決して順風だったとは思えないし、決して口に出さなかった分、悩み、苦しみは深かったのではないか。外出、帰宅の前後そして仏前で合掌し一心に祈っている姿、この姿でこうの喜怒哀楽の有無が判った。
○安んじ、そして耀く
昭和五十二(一九七七)年四月十日、洗面所への途中、こうは転倒し大腿骨頸部骨折、自宅療養と決めた。外科医からは食事をできる限り摂ってもらい、認知症を防ぐため二十分おきに声掛けを指示される。こうを真ん中にしての夕食もかなわなくなった。
二カ月の絶食が続き、カステラを焙茶に溶き、私がひと口食べてみせ、こうに勧めた。食べてくれた。そのことが孫たちに伝わると、長姉からは義兄が退勤後の車を待ちかねるようにして夕食に合わせ、こう好物の茶碗蒸しとくるみ豆腐が、三日を空けず届けられた。他の孫の訪問も続き、一度だったか、客間の横座に座ることができたのだったが…。
床の中にあっても、仏間との中襖を開けさせ、朝晩の礼拝は続いた。八月十一日には私が仏壇を掃除する。喜んで見ていた。棚経のおり、住職の声掛けに満面の笑みを見せた。
いつの頃から始まったか記憶していないのだが、こうの寝床の両側に私たち孫の誰かが休むようになった。私も昭和二十九(一九五四)年四月からの十四年間、こうの側で休んだ。寝入るまでのこうの述懐は、私にとって大助かりでメモも今日まで残っている。
太田に嫁してやりとげた自信と、いつも相応の役割を果たしていると自負し「おれがいなくなったら…」の口癖だったこうも、み仏のお迎えをいただいた。日本バプテスト同盟塩釜キリスト教会の著名な斎藤久吉牧師の弔問を受け、こうの死を非常に惜しんでくれた。生前、よくふたりきりで長時間話していたことが思い出される。
斎藤牧師の語ることには、第二次世界大戦で日本の憂色が濃くなった頃、こうは同師に、「このまま戦争を続けたら、日本はなくなってしまう。牧師さんなら、すぐ戦争を止めるようアメリカの大統領に手紙を出せると思うので、なんとかしてほしい」と頼まれたと。「一億玉砕」が国家のうたい文句であり、全国民が竹槍を作って敵を迎え撃つ、といった本土決戦態勢であったこの時期に、塩釜あたりで終戦を唱えることや、米国大統領への手紙を出すことを語る人は珍しいと思ったとのこと。
さらに、もう一度バナナを食べてから死にたいといったので、思わず苦笑したという。終戦前後の食糧事情は厳しかった。「代用食」で空腹をしのいだ。裕福な家庭であっても、牛乳、バナナなどは病人以外は口にすることができなかった時代ゆえ、バナナへの願いは当時の世相を端的に物語っていよう。
仮通夜には、母と孫五人で、こうの臨終時の寝具をひとつづつ配り合い、別れを惜しんだ。こうの顔は安んじそして耀いていた。
浄土こそが真の住家だと心底信じて、念仏を称え続けた祖母こう。その生涯を想う時、「平生の念仏は臨終の念仏であり、臨終の念仏は平生の念仏である」と申された法然上人のご法語を噛みしめながら「人のお浄土詣るは、確実に周りの人びとにしあわせをもたらす」と、誰はばかることなく、語り、伝え得る。