〈2〉「信」について

讃題
「いけらば念仏の功つもり、しなば浄土にまいりなん。
 とてもかくても此の身には、思ひわずらふことぞなしと思ひぬれば、
 死生共にわずらひなし」(同唱十念)
 初重は機を、二重は行を、三重は解を、四重は証を、それぞれお伝えいたしましたが、この前四重において明かしました、機・行・解・証のそれぞれが、第五重において「決定の信」、まちがいのない信心へと結帰されていくものであります。 
 第五重の核心は、まさにこの「行体」そのものを伝えんとするところにあります。「信仰の決定」という、この最も重要なところを第五重「信」とお伝えするのであります。
 例えて申すならば、一家の家宝を子孫に相伝しようとする時、まずはその由来徳用(故事来歴)を説明し、今正しくその宝物を譲ろうとするところであり、最も重要なところであります。
 第五重は、これを「信」「口授心伝」と伝え、信決定して「南無阿弥陀仏」と、お受け取りを願うのであります。最後のお巻物だけは、この「第」という字がついております。これは「五重相伝」の「五重」と区別をするために、五つめのお巻物ということであります。
 今までは法然上人、鎮西上人、あるいは三祖記主禅師、それぞれ日本のお祖師さまのお巻物を頂戴いたして参りましたが、第五重は、中国の曇鸞大師さまの『往生論註』というお書物を拠り所といたしましてお伝えをいたします。これはインドの天親菩薩というお方がお示しになった『往生論』というお書物を、ご註釈なさったお書物でございます。
 初重から四重の、今までのお書物というのは、それ自体がそのままお巻物になりましたけれども、第五重の場合は、『往生論註』というお書物を拠り所としてお伝えをいたします。
 まず作者について申し上げますと、曇鸞大師というお方は、中国のお方で、十五歳のときに、中国仏教の一大聖地でございます五台山というお山へお登りになり、深く感じるところあって、ここでご出家をなさり、四論宗の学問に励まれました。しかし、あろうことか学問の途中にして病気をうけ、心はおおいにあせります。学問の途中にして命果てるようなことがあっては、まことにもって残念至極。そこで曇鸞大師はお考えになりました。
 「幸いにもわが国には、仙人の法、不老長寿の法というものがある。これを身につけて、その上に仏教の勉強をしたならば、鬼に金棒である」 そこで曇鸞大師は、ひとまず仏教の勉強を中断し、仙人の法を求めて、そのお師匠さま、陶弘景という仙人のもとを訪ね、入門を請われました。しばらくご修行の後免許皆伝、仙経十巻を授けられ、意気揚々と洛陽の都へ引きあげる道すがら、インドのお坊さん、菩提流支三蔵さまとお出会いなさったのであります。学んだ仙法が些か鼻にかかりまして、思わず議論に及びました。
 「わが国には、不老長生の仙人の法が伝えられているが、インドの仏教がどれほど優れてるかしらんが、これに勝る教えはあるまい」とやりました。  それをお聞きなさった菩提流支三蔵さまは、「この世に生まれたものが不老長生と、死なないなどという事がありえようはずがない。たとえこの世で長生き、長寿を保ったとしても、それは生死の迷いを繰り返していくだけであり、真の目的を達成したことにはならない」ということを縷々お説きになられました。
 インドのお釈迦さまの教え、仏教には、「無量寿」といって、阿弥陀の中に生きていくところの、不老長寿どころか、「無量寿」でございますから、「無量」の命を保っていくところのみ教えが説かれている。その命の長さにおいて如何でしょうか、まさに、そのお教えが説かれたお経さまが、あの浄土三部経の一つである『観無量寿経』というお経さまだとお示しになり、その時に、このお経さまを親しくお授けになりました。
 いかに三世了達、つまりお悟りを開かれたお釈迦さまといえども、この世にお生まれなさった以上は、その肉体とは、やっぱりお別れなさった。この世に生まれたものが滅しないという法があろうはずがない。だから命のあるあいだに、立派に無量寿に生きていくところの、極楽浄土に生まれていくところの種を育てていくということこそが、大事なことだとお示しになったのであります。
 ひとたび種が実ったならば、たとえそれが千年おいたままにしても、これをもういっぺん土に返し水をやり、縁を与えたならば、この種が芽を吹き出してくる。千年前のハスの種を研究なさって、立派に近年花を咲かせられた大賀博士もいらっしゃいますね。あるいは、何百年、何千年前の稲、このモミが、また土に返していったなら、芽を吹いて出てくる。お百姓さんが、種をまいて稲を育ててくださる。肥料をまわして草を取って、ずいぶん苦労してあの稲をお育てなさるけれども、その目的はどこにあるか。何もワラを作ろうと思って、あの稲作る人はないんですね。ワラはワラで、その使い道はありますよ。畳の床にもなりますし、あるいは他の肥料にもなりましょう。いろいろ使い道はあるけれども、田んぼに種を蒔いて、そして力をこめていろいろ苦労して、お育てなさるというのは、あのワラを取るために作ってなさるのじゃないですね。その実ったお米をいただくために作っておられる。  私たちのこの肉体、身体というのは、例えてみるならば、あのワラに相当するものなんです。そのワラは、いつしか消えていくだろうけれども、そこに無量寿の種が実っていくならば、極楽浄土に、新しくそれが芽を吹き出さしていただく。だから、その種を実らせていただくということ、無量寿に生きていくということが、大事なことであるということを、そのときにお諭しなさるのでございます。
 そして、この『観無量寿経』をいただかれた曇鸞大師は、いま抱えてきた仙経十巻というものを、火の中に投げ込んで、それからというもの、一心にこの『観無量寿経』をご研究になり、お念仏の道をお歩みになり、のちには中国浄土教の祖と仰がれる、尊いお方となってくださるのであります。  その曇鸞大師さまが、『往生論註』というお書物をお書きなさって、この中に、私たち浄土宗では、十遍のお念仏を申しますのに、「同唱十念」と申しますように、十遍のお念仏ということをひとつの区切りとしております。
 それはどういうところからきているのかと申しますと、あの『仏説無量寿経』の中には、四十八の法蔵菩薩さまの大願がずっと並べられてあって、その十八番目に「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」とあり、「もし私が仏となったならば、十方の衆生よ」と。皆さん方よ、「至心信楽 欲生我国」、「至心」というのは、二重の中、三心のところでお話ししました至誠心ですね。「至心信楽」、まことの心で、心の底からわが教えを深く信じ、そして「欲生我国」、わが国に生まれたいと願い、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国」、これは至誠心、深心、回向発願心です。この三心具足してわが国に生まれたいと願い、「乃至十念」。十遍のお念仏申していく者は、一人残らず救い取る。もしそれができなかったら、私は決して仏にはならんとお誓いなさった。ここに「乃至十念」という言葉が出てくる。
 また、『観無量寿経』の中には、「令声不絶具足十念称南無阿弥陀仏」とありまして、声を絶えざらしめて、十遍のお念仏を具足すると、八十億劫生死の罪が除かれて極楽に生まれることが出来る。そのように説かれてありますので、それはお念仏の数にこだわることではないけれども、いちおう十遍のお念仏、十念ということを、浄土宗では一区切り、ひとつの単位とするのでございます。
 そこで、その十遍のお念仏を、どのようにしてお唱えをさせていただくか。その尊い唱え方が、この『往生論註』のお伝えにございます。
 十遍のお念仏、十念を唱えるには、「方便あり、口授をまつべし」とのお示しでありますから、これは、「口授心伝」と、こう申しまして、お師匠さまの口から、お弟子の皆さまがたの心の中に伝えていく、「口授心伝」でございます。つまりこれを「口伝」と申します。十遍の尊い念仏の申し方がある。しかし、それは口授を待ちなさい。しかもこれは「筆点に題することを得ざれ」とございまして、筆で書きとめてはいけませんということであります。
 それは「方便あり、口授をまつべし」、口伝を待ちなさい。そして、それは決して筆に書きとめてはいけません、というご指南でございますから、これをいただきまして、第五重のお伝えは、明日の伝法において、お師匠さまから皆さまがた、お弟子さまの心の中に、しっかりと口伝として、これをお授けくださるのでございます。だから第五重は、これを「口授心伝」と申しまして、十遍のお念仏が具足していくたいへん尊い方法をお授かりなさるのでございます。ですから、これは、今この勧誡の席で、私が申し上げるわけにはまいりません。明日のご伝法の席において、これをお受け取り願うということでございます。
 「筆点に題することを得ざれ」ということでございますから、それをいちいち字に書きとめてはいけませんということで「書き残しの伝」とも申します。そうございますからね、今日までの勧誡は、これテープに取っていただこうが、それは別にかまいませんけれども、明日のご伝法においては、一切書きとめてはいけないということになっております。口授心伝ということ、口伝でございますから、心の中にしっかりとお受け取りを願いたいと思うことでございます。また阿弥陀さまのお顔の上に頂戴いたしますところから、「面上十念」とも、また仏のご相好に思いを凝らしてお唱えいたしますから「凝思十念」とも申します。
 お念仏を申しますのに、一心不乱に申しますと数を取ることが出来ません。また数に思いがいきますと一心に申すことが出来ません。それを数を思わず、しかも余念なく、御尊体と差し向かいのままに十念具足するという、まさに甚深微妙の方便であります。
 今まで、皆さん方は、同唱十念と、何回もお唱えいたしましたが、そのときに上手に十遍お唱えをいただきましたね。あれは何か工夫をしていらっしゃろうかと思いますが、どうしてお唱えなさったんでしょうかね。ピシッと十念合いますな。それは、四・四・二と頭の中で数読みながら、お十念なさったんじゃないかと思います。あるいは指を折りながらね、十遍かぞえていかれたと思います。
 しかし、そうしてお念仏申しましたら、仏を念じると書かれてあるけれども、頭の中はどうでしょうか、四・四・二という数字が頭を走ってますね。思いが数字にいってますね。じゃあ、指をこうして折りながらお唱えしていらっしゃったら、思いがやっぱりこの指にいってる。念仏とはいうものの「念指(ねんゆび)」です。何らかのご工夫をして、その十遍のお念仏をお唱えなさったと思いますけども、明日のご伝法を頂戴なさいましたら、もう数よむことはいらん。仏さまと差し向かいのまんまで、数もよまんのに、自然と十遍のお念仏が具足していく、唱えられていくという、その尊いご伝法を、明日頂戴をなさるわけでございます。
 しかし、この曇鸞大師がお書きくださったお書物というのは、日本にも古くから伝わっておりましたから、そのお書物を読んだ方はたくさんありました。そのお書物を読んだら、「ああ、これは口伝があるんだな」と、ここまではお気づきなさる。読んだ方はね。だけど、どなたがそれを伝えてくださるお師匠さまか。そのお師匠さまに出会うことができずして、せっかく口伝があるということに気づきながらも、その口伝を受けずじまいで、お亡くなりになった方がたくさんいらっしゃるんです。
 あの『往生要集』をお書きなさった恵心僧都もそのお一人。たいへん悔やみに思われたそうですね。今日に名を残されるほどの名僧知識が、お受け取りになれなかったその口伝を、凡夫の身でありながらわずかな期間の行において受け取らせて頂く尊き仏縁を心から喜ばなければなりません。  そのときに、曇鸞大師さまが菩提流支三蔵さまから頂戴なさって、また元祖大師さまが善導大師さまから、二祖対面と、あの真葛原において、夢定中の対面をなさったときに、このご伝法もお受け取りくださった。そして、空中高々と七言四句の偈文を揚げられて、浄土のみ教えを相伝なさったのでございます。
 そしてそれを、いよいよ明日、要偈道場と密室道場という、二つの道場においてお受け取り願うのであります。最初の道場を「要偈の道場」と申します。
 これは、二祖対面の折りに、空中高々と揚げてくださった、七言四句の偈文をもって、お念仏のみ教えが、仏教の中でもっとも究竟して優れたところのみ教えであるということを、その四句の偈文でもってお伝えをしてくださる。これもご伝法でございますから、ここで詳しくお話はできませんけれども、仏教には大きく分けたら大乗仏教、上座部仏教と、こんな呼び方いたしますね。中国を経て日本へ伝わった仏教を大乗仏教、南方へ伝わった仏教を上座部仏教と、こう大まかに分けておりますね。
 その大乗というのは、大きな乗り物ということです。どんな者でも救われていく大きな乗り物の教え、これを大乗仏教と、こうおっしゃった。その仏教の中でも、とくに優れた阿弥陀さまのご本願、本願他力が働いてくださる。凡夫のこの私、煩悩を断ち切ることのできないこの私までもが救われていく道ということで、たいへんその中でも優れたみ教えであるということを、四句の偈文を通して、明日、お伝えくださることになっております。だから肝心要の偈文を用いて伝えていくところの伝法道場でございますから、先の道場を「要偈道場」と、こう申すのでございます。
 そして、後の道場を「密室の道場」と、こう申します。「密室の道場」、こう申しますとね、なにか今までに公表されなかった秘密のことでも教えてくださるのかしらと、そういう期待をもたれるでしょうが、そうじゃない。救うてくださるご本尊阿弥陀さまと、凡夫の私たちとが、たいへん親密な関わりにおいて法をお伝えくださいますから、この道場を「密室の道場」と、こう申すのでございます。そして後の、この「密室の道場」において、第五重のお伝えでございますところの「十念の伝」、これをお授けなさいます。どうか、そのときには、しっかりとお受け取りを願いたいと思うのでございます。
 そして、ただ今のこの最後の勧誡が終了いたしましたならば、今晩はいよいよ「懺悔の道場」、そして明日の「要偈の道場」「密室の道場」と、続いていくわけでございますが、これは今日まで、こうしてお話を申し上げました勧誡を思いおこしていただき、そしてこれを、目で見、耳にし、そして身体に味わって受け取っていただく道場が、これからの道場でございます。だから勧誡で、あのときにこんなことを聞いたな、あんなこともあったなと、それを思いおこしながら、身をもってこの三つの道場、お味わいをいただきたいと思うことでございます。
 明日はいよいよ、三国伝来の尊いご伝法をいただかれる皆さま方でございますから、清きが上にも清くなければなりません。だから今晩、それに先立ちまして、「懺悔の道場」にお入りいただき身も心も清らかになっていただきたいのでございます。
 懺悔ということは、世間一般では「ざんげ」と使われているようですが、キリスト教でも「ざんげ」とおっしゃいます。テレビでも、「ざんげ」ですね。だけどこれは「さんげ」と読むのが正しいんです。なぜかと申しますと、この「懺悔」という言葉は、「懺摩」というインドの言葉、これを中国語に訳して、意味の上から「悔過」と訳されたんです。インドの言葉を漢字に訳したら、「悔過」そこで、この二つがくっついてできあがった言葉なんです。「懺摩悔過」、だから、その懺と下の悔とをいただくんですから、これを「さんげ」と読むのが正しいですね。「ざんげ」じゃなくて「さんげ」であります。これを悔い改めるということと、誓って二度とその過ちは繰り返さない。その誓いとを含めていただきますのが、この「懺悔」という言葉の意味であります。
 勧誡の席でも、何回もお話し申し上げましたように、普段は「仏さまに頭下げんならんほどの悪いことしてない」とお思いのことでしょうが、私たち凡夫は、叩けばみんなほこりの出る身体でございますね。三毒の煩悩に引きずり回されて、たくさんの罪、悪業を重ねてきた身と意であります。  罪には自覚の罪といって、自分で知って作った罪もあります。あるいは不覚の罪といって、自分は知らず知らずのうちに重ねてきた罪があります。あの人のために良かれと思ってのことだけれども、その言葉で相手は傷ついていらっしゃるかわかりません。相手は泣いていらっしやるかわかりませんね。しかし本人には、罪の意識はございません。知らず知らずのうちに重ねてきたところの罪がある。
 しかも、法律上に罪がないとしても、道徳上はいかがなものであろうか。道徳上ではなんとかクリアしたけれども、今度は宗教上の罪となったら、これはもう、「なし」と言える人はひとりもない。心の奥底に、今まで誰にも打ち明けることができなかった、そんな包み隠してきた罪の一切を、このたび仏のみ前に懺悔をさせていただく、それが今晩の懺悔道場でございますから、身も心も、心身清らかにしてお受け取りを願う、ということでお聞きくださる道場が、今晩の懺悔道場。そして明日の要偈の道場、密室の道場と、お受け取りを願うということでございます。
 以上まとめて申し上げますならば、初重は「いかなる愚かな者にでも、南無阿弥陀仏と唱うれば、往生するぞと思いとり、一点の疑いもなく、信決定して南無阿弥陀仏」とお受け取り願いまして、お剃度の式でお誓い頂きました、あの日課称名三百遍以上を、明日の伝法でいただかれます「十念の伝」を用いられ、いつでもどこでも、み仏さまと差し向かいのままで、お念仏の日暮らしができていくのでございます。まさしく日課称名三百遍のお念仏こそ、五重相伝の宝物であります。
 明日、この二つの道場を済まされるときに、お巻物、お血脈というものを頂戴なさいます。そのときは勧誡で申し上げましたように、師資合血、お師匠さまの左手と、皆さま方の右手を合わせて、授手印の作法でもって、そのお巻物を、もう片方の手にお渡しくださいますから、南無阿弥陀仏とお授けくださるから、この教え我が血の中まで、身体の中までも受け取るぞ、という思いで「南無阿弥陀仏」とお受け取りくださいますようお願いを申し上げておきます。
 そのときにいただかれます、そのお巻物というのは、このお念仏のみ教えが、どこをどのように次第して今日に及んだかということを、血の脈、赤い糸(朱縄)でずっとつながれております。お師匠さまでございます、当山の方丈さまは、知恩院の管長さまから受け取っていらっしゃった。その知恩院の管長さまを、ずーっと代々遡ってゆけば、法然上人に至り、善導大師に至り、もとは大慈大悲の阿弥陀如来の慈悲の御手より、このみ教えを頂戴すると、そんな思いでお受け取りを願いたいと思うのであります。
 しかし、そのお巻物に値打ちがあるのじゃございません。お巻き物は、言うてみるならば、これは鑑定書ですね。こうして五重相伝たしかにお受けになりましたよ、という鑑定書でございます。いちばん大事なところはどこか。大事なところは、口にお念仏申すということですから、日課称名三百遍以上を相続、続けていただくということが、いちばん大事なことであります。ここが宝であります。
 それ、両方揃ったら言うことないですね。これは、「名刀正宗」という立派な刀がある。これはその「名刀正宗」に間違いございませんという折り紙、鑑定書が揃うておったら、これは立派な値打ちがございます。だけど刀はない。刀はないけどこの鑑定書だけ持っているというのでは、これは意味のないことです。これは本物の鑑定書ですよと申しましても、この鑑定書には意味のないことであります。だけど、たとえ鑑定書はなくても、本物の「名刀正宗」を手にしていれば、これはこれで値打ちのあるものでございます。
 だから、お巻物と日課称名三百遍以上、これが両方揃うて相続できるなら、これにこしたことはございません。たとえお巻物はなくても、日課称名三百遍以上、これをお続けくださるということであれば、それはたいへん尊いことでございます。大事なところがどこにあるか、お受け取りをいただきたいと思います。
 そしてこの第五重の中に、この曇鸞大師さまが菩提流支三蔵さまから『観無量寿経』をお授かりなさいまして、これを読みに読んで、研究を重ねてくださいましたが、そのお経の中に、
「一生造悪の者が、五逆の罪と言われるすべてのものから切り捨てられていくような罪悪業を重ねた者が、最後臨終に、善知識、よき指導者にめぐり会うて、念仏すれば極楽に生まれていくことができる」
という教えをいただかれて、一生造悪の者が最後十遍のお念仏を申しただけで、極楽に生まれていく。これはどう考えても理屈に合わんこと。
 「業道経」という、業を説いた数種のお経さまに照らし合わせてみましても、それは「善因善果、悪因悪果」と言われて、悪いことをした者が悪い世界へ堕ちていく、善いことをした者が善い国へ生まれていく、これは当たり前のことである。それが、一生涯ずーっと悪業の限りを尽くしてきた者が、最後十遍のお念仏で、どうしてこの人が救われてゆくんだろうか、とたいへん心悩まされますが、ご研究のすえ、このことを後々の人が迷いをおこさないために、そこに三つのわけがらを示して、そして最後十遍のお念仏でも救われてゆくんだ、五逆十悪と言われるような大罪を犯した者でも、最後十遍のお念仏で救われてゆく、そのわけがらを、このお書物の中にお示しなさっていらっしゃる。これを三つのわけがらがあって、救われてゆくということで「三義校量」と申します。
 それはどうして、その一生罪、悪業を重ねてきた者が、最後十遍のお念仏で救われてゆくのか。それには三つのわけがある。一つには「在心」と言いまして、心にわけがある、在心。そして、「在縁」、それは縁の会い方が違う。最後に「在決定」と、この三つのわけがらがあって、一生造悪、罪、悪業を重ねてきた者が、最後十遍のお念仏で救われていくんだということを明解に説いておられます。
 今日から始めて、最後臨終の夕べに至るまで、五十年、六十年、毎日念仏申していかれるというのも、これも一生。だけど、最後臨終のまぎわに、善知識の勧めによって、十遍の念仏申されると、それも、最後一日念仏相続するということも、目覚めるのは遅かったけれども、一生ということには違いがない、一生涯念仏したということには違いがない。
 そこで、その十遍のお念仏によって、「八十億劫生死の罪を除く」と、お念仏にはそういう大きな功徳があるんだから、生涯ずーっと悪を重ねた人であっても、最後にその教えに出会って、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と十遍のお念仏を申していくならば、その人は救われていくんだ。
 そのわけは、私たち人間が、罪、悪業を重ねていくというのは、知恵のそなわった明るい心であるならば、そんな悪いことに染まっていこうはずがない。それが真っ暗闇になってるがために、無明煩悩に閉ざされているがために、つい、悪業に手を染めていくんだ。だから、罪を行うときのその心というのは、真っ暗闇の心となっている。だけど、最後十遍のお念仏を勧められてお念仏申していくときには、今までの、八十億劫生死の罪一切が除かれて、あかあかとした心の中からお念仏を申してゆくから、そのときの心の状態が違う。だから最後十遍のお念仏で救われてゆくんだ。
 たとえて言うならば、千年間締め切って真っ暗闇のお部屋、そのお部屋を明るくしようと思うなら、千年間光をあて続けなければ明るくならんか、というたらそんなことないですね。何年真っ暗闇にしておこうが、パッと光をあてたその一瞬に、あかあかと照らされていきます。それと同じように、どれほど長い時間暗闇の心であったかは知らんけど、最後十遍のお念仏を申すときには、八十億劫生死の罪が除かれて、あかあかとした心の中から、生涯、命の限り、お念仏を申していくんだから、この十遍のお念仏で救われてゆくんだと説かれました。
 そして、次に「在縁」と申しますのは、縁の会い方が違う。罪、悪業を重ねてきたときの相手、それから、最後十遍のお念仏申すときの相手、これはまったく違うところでございます。罪・悪業を重ねていくというのは、相手がお互い凡夫同士でございます。だけど、最後十遍のお念仏を申すそのときには、救うてやまんとおっしゃるあのご本尊さま、阿弥陀如来さまをお相手として、お念仏を申してゆくから、そら相手の会い方が違う、縁の会い方が違うから、最後十遍のお念仏でこの人が救われてゆくんだと示されました。
 最後に、「在決定」といわれて、心の定まりかたが違う。悪いこと、罪、悪業を重ねていくということは、堂々とはできない。悪いと思ってたら堂々とはできないですね。だから、居眠りでも前の人に隠れてコソコソ::そら銀行強盗するというときに、顔むき出しではいかんですね。たいがい覆面をするか、あの靴下かぶってたとか、サングラスかけてたとか、やっぱり堂々とはできないんです。悪いこととわかってる。今はそうですけど、昔やったらかむりしてね、そぉっとウロウロ、キョロキョロしながら、見つかったらどうしようかとヒヤヒヤしながら、悪いことをしていく。だから心がふらついておる。
 だけど、最後十遍のお念仏を申すときには、生涯悪業の限りを尽くしてきた私ですけれども、息の切れるまぎわに、十遍のお念仏で救われるぞという教えを聞いたときには、もうそこへすがる以外にはないんです。他に頼むところはありません。心定まって、この道以外にはない、と心定まって十遍のお念仏申すから、心の決定の仕方が違う。だから、一生涯造悪の限りを尽くしてきた者も、最後に善知識の教えを聞いて、最後十遍のお念仏を申した者が、八十億劫、永ーい間の罪が除かれて、極楽浄土に、仏のみもとに生まれさせていただくことができると明らかにお示しになりました。
 この三つのわけがらを示して、罪の重さと、念仏の功徳の重さとを量って、このお書物にお示しくださったのであります。このように、一生造悪の者が、最後十遍のお念仏で救われてゆくところの尊いみ教えでございますよ。今日より始め、臨終の夕べまで日課称名三百遍以上相続してくださる皆さまのお念仏に、み仏さまがこたえてくださらんはずがございません。お救いいただけないはずがございません。どうかそのひとすじ道に、ご精進をいただきますことを、重ねてお願いを申し上げることでございます。
 東京に、日本ペイントという大きな会社がございます。そこの社長が、もうお亡くなりになりましたけれども、西田伝五郎という社長がいらっしゃった。この方は関西の出身のお方だそうでございます。この方がやっぱり、この五重相伝のご縁に会われたんですね。日ごろは東京にいらっしゃつたお方、忙しい社長さんでございましたけれども、だいぶん歳がいかれてから、自分の郷里へ帰って、五重相伝をお受けなさったんだそうですよ。そのころは足も弱られて、ご不自由で、杖をつきながら、この五重相伝につかれたんだそうですね。ご住職も気を遣われまして、「もう、そんな前へ座ったらたいへんでしょうから、後ろに椅子を用意しましょう。後ろのほうでゆっくり受けてもろたらけっこうですわ」
 ご住職は気を遣うてそうおっしゃった。
 「いや、わしゃ東京から帰ってきて、わざわざこの五重相伝につかしてもろたんだから、私だけ特別なことしてもうたら具合が悪い。皆さんとご一緒に受けさしてもらう」
と言うてね、杖にすがりながら、この礼拝も、皆さんと同じだけなさったそうですよ。
 そしてそのときに、日課称名三百遍以上、皆さんと同じようにお誓いなさった。「よく持つ」と、社長自ら口になさったそうですけれども、さあ、これ、正直申して、これから先三百遍の数が申していけるのかどうか、それも不安ではあった。不安ではあったけれども皆さんがそうおっしゃるし、そう言えと言われたから、大きな声で、お念仏「よく持つ」とお誓いした。
 そして、五重相伝終わってみて、話もいろいろと聞かせてはいただいたけども、さあ、五重は何をお伝えくださったのか、じーっと考えてみるけれども、なかなかこれがはっきりしない。五重終わって、さあ、私に残っておるのは何だろうか。思い出そうとするけども、確たるところ、確実にそのお話を思いおこすこともできない。しかし、あの中で日課称名三百遍以上と誓った。これは方丈さまと誓うたわけじゃない、ご本尊阿弥陀さまとお誓いさしていただいたんだから、お話の中身は覚えてはいないけども、誓うたこの三百遍だけは、なんとか実行さしていただこうと思いました。五重相伝終わったら、そのお約束だけしか私には残ってなかった。それも仏さまと約束したんだから、せめてこれだけなりとも実行さしていただきましょうと、日課称名の三百遍だけは実行したとおっしゃる。
 そして、それをずーっと続けていかれまして、やがてご病気になられて、東京の病院へ入院をなさったそうです。そうしますと、ご住職も東京まで出かけて、この社長のお見舞いにおいでになったそうですよ。
 そのときに、この伝五郎さんが、ご住職の手を握られましてね、「私も五重受けて、そしていろいろ聞かせていただいたけれども、五重終わってみて考えてみたら、あの日課称名のお誓いだけしか残ってなかった。だからせめて、これなりとも実行さしていただこうと思うて、毎日毎日三百遍のお念仏申さしていただいた。申すまでは、難しいかな、たいへんかなと思うておったけれども、やってみたらそう難しいことじゃなかった。毎日毎日三百遍以上は、こうして申さしていただきました。しかし、今こうして、私ももう余命いくばくもない。もう間もなくこの世をおいとましていかなければならんけれども、そりゃ人生いろんなことがありました。しかし、いま私の心に確かなものとして残っておるのは南無阿弥陀仏のお念仏、日課称名の三百遍の実行、その相続だけでございます。確かなるものはこれ以外にはない」とおっしゃった。
 一流会社の社長として、さまざまなことを成し終えられたことでございましょう。世間に大きな功績を残されたお方でございましょうが、人生の終わりに「これ以外にない」とおしゃった。私も真剣に命の終わりを見据えた時に、「これ以外にない」と確信いたしております。
  生きてよし、死してまたよし極楽の
      弥陀のみもとにうまる嬉しさ
 どうか皆さま、明日は臥龍点睛の時であります。伝法の趣、しかと心にお納めいただき、日課称名怠りなく、お念仏の日暮らしに明け暮れていただきますことを、せつにお願い申し上げ、洵にふつつかな勧誡ではございましたが、以上をもちまして明日の伝法へとつながせていただきます。
 
  同称十念