二、教諭を拝して

五重相伝 第五重――信の巻について
◎浄土宗の独自性「信」を第五重結論とすること
 さて、この『布教羅針盤』の「機」・「行」・「解」・「証」・「信」の五重シリーズは、今回この「信」をもって完成する。この順序について、親鸞上人の『教・行・信・証』の「信」・「証」の順を想起される人も多いと思う。
 ここで、同じ仏教の中でも、他宗ではどのように「信」「証」が考えられているかを見るために、代表的な宗派の宗旨を、掲載年次は新旧少し異なるが、各宗ホームページから抜粋して見てみよう。
 
 〈高野山真言宗の根本の教え〉
大日如来の智恵に目覚めるために、次のことを求めます。菩提の心を発し、仏の誓願を堅く信じ、すべてのものの本性が清浄な心であることを、ありのままに知ること。この世のすべてのものを愛する心と、真実を求める心を堅く持って、行いと言葉と心のすべての働きを通じて、真理を悟り、実践する仏の智恵に気づくこと。
 〈浄土真宗の教義〉
南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、つねに報恩の思いから、世のためひとのために生きる。
 〈日蓮宗のよりどころ〉
……「法華経」を「諸経の王」……としてとらえよりどころとしています。仏教の目的が「仏になる」こと、つまり「成仏」にあることは言うまでもありません。法華経は、すべてのものが仏になることができる教えであり日蓮宗の最終目的もすべての人の「成仏」です。
 〈曹洞宗の教義〉
わたしたちはみな仏のみこであり、生まれながらに仏心を具えています ……仏に懺悔し帰依するならば、心が落ち着いておのずから生活が調えられて明るくなり社会のお役に立つことを喜び、又どんな苦難にも耐えて生き抜こうとする信念が生まれます。そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗の教えであります。
 〈真言宗智山派―教え〉
凡夫の私たちが、この身このままで仏になれることを「即身成仏」といいます。人は、悟りを求める心を発こし、衆生への慈愛を持ち、修行を実践することによって、自分の心をありのままに知ることができます。これが即身成仏への道である、と説きます。(「私たちの宗団」より)
 
 以上は各宗ホームページからの引用であるが、実際は、天台の朝題目夕念仏とか、禅宗の禅浄双修とて、念仏が用いられる場面もある。
 これらの、成仏を目的とする他宗の宗旨に対して、浄土宗では次のように宗旨を説明している。
 〈浄土宗ホームページ(宗旨の教え)〉
阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、往生(西方極楽浄土に生まれること)を願う信仰です。
 
 宗旨について、これら他宗の説明と浄土宗の説明を比較して一言でいうと、他宗は、その信仰活動によって、成仏、仏となることを強調する。さて、これに対して、ただ浄土宗だけが、往生を願う信仰であることを主張として鮮明に特色として述べる。即ち他宗は成仏、「証」、浄土宗は往生、「信」と知られる。したがって、浄土宗で、五重の最終段階の第五を「信」とすることを納得できるのである。
 
◎教諭の趣旨―万民往生・反省の信仰・強い意志

 *万民往生
 さて、教諭では「法然上人は、それまでの南都北嶺の仏教が、学問や今生での覚りを求める仏教であるのに対し、称名念仏の一法一行によって、大衆がひとしく救済される万民平等往生の仏教を創唱」と示されてある。上記に引用した他宗の信仰に対して際だっての浄土宗信仰の特色を示されている。浄土宗内だけで見ていると、つい、その自覚が強く認識されない。あらためて法然上人のただ念仏一行による万民往生を創唱された勇気と達見を思うのである。
 今でこそ称名念仏のみを言うことはなんでもないようであるが、当時としては、数ある仏教の教えを選び捨てるのであるから、捨てられた仏教ということで仏教への批判はおろか、仏教破壊とも見られるから、余人は為しえない上人の命がけの決断であったし、ここで「日本仏教」を抜本的に新しく「大きく展開された」のである。思えば破法と見られ仏教教団追放もあり得る「創唱」であったことを、教諭は指示されている。
 因みに、一六三三年、聖書の伝統的天動説に対してガリレオが「それでも地球は動いている」と主張して、宗教裁判にかけられた。その時よりも、四、五世紀も昔に、法然上人は「それまでの……(伝統的)仏教…に対して」称名念仏一行による万民往生を主張されたことは有り難いことである、と教諭は再確認を示されている。

 *自己反省の信仰と強い意志
 教諭は、法然上人は従前の覚りや智恵を中心とする仏教に対して「自己反省を基とする信仰の仏教の提唱」という、「新しい価値の発見」というモダンな言葉で説明されている。換言すると、自己反省、還愚による再認識こそ、モダンなのである。思うと、従前の自己は仏性ありという思いこみに対して、還愚は「新しい価値の発見」と示されている。これまで、このような表現はなかったと思われるが、まさにモダンな的を得た示され方ではないだろうか。
 とかく自己否定、還愚というと控えめな感じがするかもしれないが、教諭ではこういう表現で、新しく生き生きとした心を持てと示されてあって、みずみずしい感じがする。  以上のような新しい表現で、教諭を示される御門主は、百寿を越えておられ、従前と変わることなく、率先教線の陣頭に立ってのお示しであることは史上稀なることと有り難く、宗侶一同、感銘奮起すべきである。
 さて第五重「信」は、天親著『無量寿経優婆提舎願生偈』、略称『往生論』と言われるもので、『選択本願念仏集』では、
  「・・・正に往生浄土を明すの教とは、謂く三経一論これなり。三経とは一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。一論とは天親の『往生論』これなり。・・・」とある。
【浄土宗宗綱】では第六条に、
本宗所依の経論は、仏説無量寿経(曹魏天竺三蔵康僧鎧訳)、仏説観無量寿経(宋元嘉中良耶舎訳)及び仏説阿弥陀経(姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳)の三経並びに天親菩薩の無量寿経優婆提舎願生偈(往生論)の一論とする。
2 前項の経論並びに宗義の解釈は、善導大師の観無量寿経疏、法然上人の選択本願念仏集、聖光上人の末代念仏授手印及び良忠上人の選択伝弘決疑鈔による。
とある。この書の詳しい説明は後述に依るとして、ここでは、三経一論の口称「南無阿弥陀仏」について考えてみたい。南無阿弥陀仏、称名については三経一論は次の通りの「経文」である。

①『無量寿経』第十八願「乃至十念」(=十声、南無阿弥陀仏)
②『阿弥陀経』     「執持名号」(=正修念仏、南無阿弥陀仏)
③『観無量寿経』下品上生「称南無阿弥陀仏」
        下品下生「令声不絶具足十念称南無阿弥陀仏」
④『無量寿経優婆提舎願生偈』(略称『往生論』)(南無阿弥陀仏、往生)

 ①の「十念」は『選択本願念仏集』(『浄土宗聖典』三・二八頁)で、③の引用で善導大師が「念声是一」と釈され、十念は十声、南無阿弥陀仏ということと説明されてある。②の「執持名号」は法然上人が『阿弥陀経釈』(『昭法全』一三五頁)で、「執持名号」は「正修念仏なり」と説明されている。かくて①十念②執持名号は③と同じく、称名念仏なのである。  なお、「同称」に対して、「同唱」の用字もあるが、開宗御文、宗綱、『選択本願念仏集』には「唱」の文字はない。ただし『選択本願念仏集』(第三章超世本願篇)には、「感師釈して云わく、大念とは、大声の念仏、小念とは、小声の念仏なりと。故に知りぬ。念は即ち是れ唱なりと」と、一箇所、「唱」が使われている。 

  ◎浄土三部経の乃至十念・執持名号・南無―阿弥陀仏
 さて、このように、善導大師・法然上人によって①②③④いずれも等しく念仏往生である。しかし、文字で見ると①は「十念」、②は「執持名号」で、③「称南無阿弥陀仏」と表現が異なっている。従来、これについて説明されたことがないことであるが、一言する。  人類等しく、仏、神、至尊、高貴の方の御名を呼ばわり、称えるということは失礼であって、差し控え、または、禁止されていた。例えばキリスト教では、
 「あなたは、あなたの、神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう」(バイブル『旧約』出エジプト記第二十章七 他)とあって、現在でも名を呼ばず、「主よ」「My Lord」と呼ぶ。
 実は仏教も当初は、称名は禁止されていた。『五分律』では、「仏に面と向かって、軽んじて姓名で呼んではならない」(莫軽於仏面称姓名 『大正新脩大蔵経』二二・一〇四・b一三)、『四分律』(同二二・七八七・c二三)とある。般若経の時代でも、「世界中衆生聞我名号者必得阿耨多羅三藐三菩提」(同八・二二一)として、衆生は称名は許されず、諸仏が称名するのを聞いて、即ち聞名という形でしか賛嘆は表現されていなかった。これが聞名往生という表現に連なる。
 このような時代を経て、次第に仏は衆生との親しみを増し、衆生は仏の御名を呼ぶようになったが、それでも、狎れを畏れ、称でなく①念、②執持名号という表現をもって直接「称名」とは表さなかったのである。
 ①「念」であるが、文字通り解釈して、十念、十回の念とは実際どういうことであろう。十回思うというように、「思う」を回数で表現できるのだろうか。十回念ずるということは言葉通りとすると抽象的でありえない。実は、経文では、口に出して称えるという表現を憚って、念で表現したものである。善導大師の御指示の如く、この念は実質的に称と解するべきである。今更のように大師の卓見に感服する。
 次に②の「執持名号」について、ふつう、名を呼ぶ、という意味なのに、何故「称名」と訳されていないか、という点である。この『阿弥陀経』の原典として『浄土宗全書』では、梵文は「nma-dheyamm srutv」(名号を聞いて)が当該箇所であるが、もし、そうならば、(名号を聞いて)と訳されているはずである。梵文といっても、時代等によって変貌し拡大して伝搬するもので、この『阿弥陀経』の「執持名号」の原語は上述のそれでなく、「執持名号」の梵語とすると「nma-dheyamm grhtv」である。その意味は直訳すれば、「名号を執持して」となる。しかし、実際には「名号を称えて」と訳される。『モニエル梵英辞書』(五三六頁)には「nma-graha」は「mentioning a name, naming」とあり、名を呼ぶ、という意味である。そうであるのに何故「執持名号」と直訳したのであろうか。それは上来の説明のように直に名を称することへの慮りからである。  これは現在でも賞状等で御門主の名は読まずに「御門主御名」と読むのと同じである。また、現在、称名といっても「南無阿弥陀仏」と言っているので、直接、阿弥陀仏を呼び捨てにしているのでない、のと同じである。
 以上、梵語から考えても、この三経の①十念②執持名号③称南無阿弥陀仏の文字は異なるも、実質同じ「称名」であることを知るが、あらためて善導大師、法然上人のご高見を感嘆する次第である。