二、教諭を拝して

五重相伝 四重  証の巻について

◎疑問・設問と宗義研修
 御教諭に「近く宗祖法然上人八百年大遠忌を迎えるにあたり、上人の芳躅をしたい」云々と言われている。わたくしどもは、何か問題があると、上人のお心はどうだったか、というようにふり仰いで指示なり解決のめどを求めてきた。
 今、五重相伝を次第に連続して学習し、ここに第四重の伝書『決答授手印疑問抄』について研修を深めようというのである。同書は通称、「決答抄」とよばれるが、書名をみると、「疑問」という文字があるのに目を引かれる。よく宗義に対して疑問を投げかけると、老僧あたりから、「お念仏のとなえ方が足りないから」と言われて折角の宗義問答も展開しない場面が多々あった。しかし、法然上人の著書には、『要義問答』『十二問答』『東大寺十問答』『百四十五箇条問答』等々「問答」の名をつけたものが二十以上も伝えられる。上人は質問を受ける形で、次々と宗義を説明されるだけでなく、いわば、同じ目線でものを説明される姿がある。とくに『百四十五箇条問答』などは、率直な問いに答えられ愚鈍念仏の本旨明瞭であると共に納得がいき、念仏の妙義に感心させられる。
 ある伝統の宗派で、あきらかに違う梵字の誤りを指摘しても、伝統に対しては一切、そのようなことは言ってはならない、ということがあった。それも一つの伝統を支えることかもしれないが、幸いに法然上人は問答の形で、我々を宗義確認、研修へと導かれた。このお心の延長線上に『決答授手印疑問抄』が、第四重として意味を持つ。
 宗義に対して疑問、質問というと、安心が不定のものというように、誤解される向きもあって、折角の求道心も萎えさせるようなことはあってはならないと思われる。そういう意味で、四重の中の問答、疑問という言葉は、きわめて、示唆に富むと考えるべきであろう。

◎疑問・設問は宗義の確認努力
 『決答授手印疑問抄』は題名の示すように、在阿という浄土門の僧の『授手印』の宗義解釈への疑問を、浄土宗第三祖然阿記主良忠上人が明白に解析し、筋道を立てて回答された正しい伝統の解釈を示されたものである。
 答えをされる方の記主上人は、その名の示すように、浄土宗きっての明晰な論理の下に教義の記述を展開される方である。疑問を筋立てて分解しながら明快に答えており、問うた側も宗義をはっきりと、納得するのである。宗祖以来、次第に内容も整ってきた宗学がこの質問をきっかけとして、筋立てされ充実していく。
 これは、伝えられる阿波介の話について二祖 光上人が質問し、確認されている姿勢と軌を同じくすることを思う。『法然上人行状絵図』第十九巻では、
 阿波介(あわのすけ)という陰陽師(おんみょうじ)、上人(法然)に給仕して念仏する有りけり。ある時上人、彼の俗(阿波介)を指して、「あの阿波介が申す念仏と、源空が申す念仏と、何れか勝る」と 光房に尋ね仰せられけるに、(聖光上人)心中に弁(わきま)うる旨有りといえども、御言葉を承りて、確かに所存を治定(じじょう)せんがために、「いかでか、さすがに御念仏には等しく候べき」と申されたりければ、上人由々しく御気色(おんけしき)変わりて、「されば、日来(ひごろ)浄土の法門とては、何事を聞かれけるぞ。あの阿波介も仏助け給えと思いて、南無阿弥陀仏と申す。源空も仏助け給えと思いて、南無阿弥陀仏とこそ申せ。さらに差別(しゃべつ)無きなり」と仰せられければ、(聖光上人)「元より存ずることなれども、宗義の肝心今更なるように、貴く覚えて、感涙を催しき」とぞ語り給いける。
(「浄土宗聖典」第六巻・二三九頁)
 二祖 光上人は「元より存ずることなれども」と『法然上人行状絵図』にあるように、当然ご存じのことではあるけれど、質問、疑問を示されて、宗祖上人のお答えで、ことを、確認、決定されている。
 この問答は、宗祖に対して二祖が確認されたことであるが、四重では、二祖に対して、安心上、あるていど分かっていても、なお、疑問を呈する形での在阿の質問に、二祖 光上人が答えられることで、正しき安心が決定していくのである。在阿の質問は、受者一般の気持ちである場合もあり得よう。そして、答えを受け、説明されて、受者も安堵することになる。げに真摯な疑問、質問は、信心の堅さに導かれる。

◎宗義の確認は伝書で
 さて、このように、宗義への真摯なる参入、信仰の掘り下げ、時代思想への対応、各人各様の問いかけ等々は各人、各時代の信仰生活が進んでいくにつれて起こってくると思われる。俗に、信仰が盛んであるほど、安心の談義も多いし、異安心も伴いかねない、と言われる。求道熱心な若い僧の中では激しい信心や、ものの理解については議論が活発に行われる。
 さらに碩学、高僧におかれて、新時代の対応や、教義、信仰の近代的表現がなされてくる。一般的に言って時代と遊離しがちの伝統的宗教は、常に世を超え時代を通じて、活性を維持し、殻を脱しながら民衆の心に生きていき、心を生かしていく。
 本宗においても、近代において、碩学、高僧の提唱と指導によって、いろいろな生気を与えられ、それは現在を生かしている。
 しかしながら、恣意に蘭菊競い咲くのでは宗とはいえない。ある提唱は、公の場で、宗門の公職等拝聴という場面もあって、一つの宗門の新生の力となったのである。
 ただし、自由ということは宗門人である以上、宗に即して自由ということでなければならない。その宗に即してということが祖師代々の伝書の意義と思われる。この心棒で支えられながら、宗義が各時代に展開、発展していくのである。
 この内容を持つ第四重の伝書『決答授手印疑問抄』は、二祖が学ばれた天台の『法華玄義』等の分析的な論理的な筆致が見られる。しかし、五重の中で、これをすべて受者に分かりやすく伝えるのは、とくに日時的に不可能であるから、勧誡に際して、それぞれの工夫、表現で制限された時間で行われてきたのである。基本的には質問形式を受けて、安心を整理しながら、明快に宗旨が間違いなく伝わることである。その骨格をするのが伝書ということになる。

五重参考資料について
 今回の『布教羅針盤』であるが、当初は、なかなか読まれることが少ない、という感じであった。しかし、内容が五重ということになり、しかも、「近江方式」「大和方式」というように、会場設定まで示された具体的な方法を、参考資料に付けるようになって、若干のアンケートながら、読まれはじめてきたことが分かった。
 執筆の方々のご苦労を感謝するとともに、本羅針盤を参考に、今後の盛行が期待される。中には、それぞれの寺院、地方で状況に即した方法を研究し実行されている方が増えてきたようである。昨年近江から、実行の場面場面を、CDに納めたものをいただいた。未知、後学の者にはたいへん参考になった。できれば、許される範囲で説法・音曲も収録したものがあれば、という感じであった。当五重篇は来年で終わるが、ご意見ご要望があれば、教学局布教委員会へご連絡願えれば幸甚です。