○一ツ(一打)無明常夜、六道輪廻の表示
つけたり金打(きんちょう)のこと
皆さん、私とは一体どういう者でございましたでしょうか?
私の知っている私ではありません。
私の知らない私。阿弥陀如来様の御存知の私、阿弥陀如来様に見られている私であります。
阿弥陀如来様は私達の前の世、この世、後の世、即ち過去、現在、未来三世を通して御覧になっておられます。
私達の前の世は一度や二度ではありません。生まれかわり死にかわり、生まれかわり死にかわり、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上と六道の巷をさまよい、光を失ったこのような闇から闇へのさすらいの旅であると、この道場は教えて下さっています。
いずれの世も心やすらかな所ではありませんでした。
私達はこの間、正しい信仰の心を起したこともなく、又心から仏に頼ろうとはしなかったと教えられました。
私達は不思議な縁で、この度尊い人間に生まれさせて頂きましたが、今日までどうでありましたでしょうか?
親に心配ばかりかけ成長し結婚し、夫婦二人で力を合わせ、子供を養育し、財産を築いて参りました。
本当に生活の為に骨身をけずって働いてきました。勿論これは尊いことであります。
しかし、しいて云えばこれは、ただ生きることだけをして来たのではないでしょうか。
又、自分の一生を振り返ってみますと生きただけの一生を終わろうとしているだけではないでしょうか。
人間、この世に生まれて、生きただけの一生にしてよいものでしょうか。
私達は何の為に生まれ、何の為に生きているのか、何の為に働いているのか、何の為に財産をつくって来たのか。
私達はやがて年老い、この世を去っていかねばなりません。
そう思うと何かわびしく、むなしさで満たされぬものが襲って参ります。
私達は、この満たされぬ思いを満たす為に、又この世の苦しみを逃れる為に快楽を求めて参りました。
楽しんでいる時はよろしいのですが、楽しみが済んでしまいますと更に大きなむなしさが襲って参ります。
さて、人間として一番大事なこと、はかない生命をはかない生命と知らず、昨日もいたずらに暮れ、今日もむなしく過ぎようとしています。
本当に、危険を危険と知らない、あわれな姿が今日の私達の姿ではないでしょうか。
さてこの度、不思議な御縁で五重相伝の会座につらなり、慣れぬ行ではありますが、阿弥陀如来様の御名を呼び礼拝をし、お経を読み、仏の教えを聞き四日間ではありますが一生懸命励んで参りました。そのおかげで、皆様の心の中に一つの光が灯されたのではないでしょうか。
皆さん真正面を御覧下さいませ。一本の線香の光が見えます。か細い光がありますが、あたりの闇に負けることなくきぜんと輝いて光を放っています。
これは皆様の心の奥底に灯された信仰の光になぞらえたもので、願往生心を表しています。
この光を消してはいけません、育てていかなければなりません。
この光を育てていく力になるものは、昨日お誓い下さいました日課称名三百遍の念仏であります。これのみが育てる力になるものです。
どうかお念仏を励んで下さいませ。
さて、この道場でお座りになる前に鉦鈷を一つ打って頂きましたが、これは「金打(きんちょう)のカネ」と申し、約束を間違いなく守ります、という誓いのカネであります。
昔、武士がお互いに約束をする時、刀の鯉口を切ってカチッと鳴らしたことになぞらえたものです。
皆様に打っていただきましたカネの音は、下は地獄の底から上は天上界まで鳴り響き、今迄の六道の永い迷いの生活に打ち止めをして頂くカネであり、この道場のこと、明日の伝法道場、密室道場のことは一切他言をしないという誓いのカネでもあります。このことを心に言い聞かせて頂きたいのであります。
そして、日課のお念仏を生命の綱として、これからの生活を世間並の心から仏弟子としてお浄土に生まれる生活に入って頂きたく存じます。
無明常夜六道輪廻の表示つけたり金打のこと。
終わる
○一ツ(一打)二河白道二尊遣迎の表示
皆さん、辺りは眞暗闇であります。
前にどなたがおられるやら横にどなたがおられるやら、後にどなたがおられるやらわかりません。
しかし、唯ひとつはっきりしていることがあります。それは今自分がここに座っているという事実であります。
天上、天下に唯一人。
私達は一人生まれて一人去って行きます。
お互いさまであります。
さて、私達は今日まで何を頼りとして生きて来たのでしょうか。
妻を頼りとし、夫を頼りとし、子供達を頼りとし、財産を頼りとし、これさえあったら大丈夫と安心して参りました。
勿論この世に生きる者として、これらのものは頼りがいのあるものでなくてはならないものです。
しかし私達はやがて年を老い、この世を去る日がやって参ります。
その時此等のものはついて来るでしょうか。私達から離れていくもの、離していかねばならないものではないでしょうか。
そう考えますと此等のものは本当の自分のものではないということです。
この世、後の世かけて真に力になるものは何一ツ持っていないということであります。
手元カラッポである自分に気付いて頂きたいのであります。
今更どう修養してもどうにもなりません。この自分の非力に気付く時、自然と両の手が胸の前に合わさり、大いなるものにすがろうという心が初めて起こります。
このすがる心が、私達が持っている心の中で唯一、汚れなき尊い心で仏に通ずる心であります。即ち信心の心であります。なぜかと申しますと、私達は自分を救う力を持ち合わせていないことに、この度初めて気付いたからであります。
阿弥陀如来様はかねての昔よりこの様な私達を見抜いて、どうにもならん私達をどうにかしよう、不可能を可能にしようと、今日まで私達に吾れを頼って来い、必ず救う、約束する、安心せよ、と呼び続けておって下さるのです。しかし、私達は常に背を向けて参りました。この度、本当の自分を知るに及んで阿弥陀如来様におすがりする心が起こりました。
私達は、赤ん坊が母親にいだかれて安心するように、不完全のままで救い取って下さる阿弥陀如来様の大慈悲の親心を当てにして安心することであります。
人間はこれ以外に安心の出来る道はありません。
さて、私はいつもは、皆様の正面からお話をしておりましたが、今夜のこの道場に限り皆様の後よりお話を致しております。
これは、今を去る二千五百年前、お出まし下さいましたお釈迦様になぞらえて、後より信心の道、白道を進めよとの姿を表しております。お釈迦様はすでにお亡くなりになりましたが、その教えはお経様となって今尚生きて私達を導いておって下さいます。
この教えのほかには、どのようなものも捨ててすがる心を起こして下さいませ。
さて、皆様の眼には見えませんが、真正面には当山の御住職様が阿弥陀如来様のお代理としてお座り下さっており、やがて十返のお念仏をおさずけ下さいます。
これは、阿弥陀如来様が常に私達に「吾れをたよって来い、必ず救う、約束する、安心せよ、迎えてやる」と、やるせない親心をささげておって下されていることになぞらえて十返のお念仏をお授け下さるのです。
その時は、すがる一心に徹して大きな声でお念仏をして下さいませ。
そう致しますと、
この世にいる時は
前は弥陀、後は釈迦、中は吾れ
押され引かれて生きる人の世です。
いよいよ臨終を迎える時は
前は弥陀、後は釈迦、中は吾れ
押され、引かれて参る極楽です。
私達は不完全な者でありますが何の不安も心配もいりません。
それは阿弥陀如来様のお慈悲を当てにする一心に徹するからであります。
五重の目的は、お念仏を体得し、この世に生命ある限りせいいっぱい生きて世の為、人の為に働いていただくことであります。これらのことをこの道場で学び取っていただきたいのであります。
二河白道、二尊遣迎の表示終わる
○一ツ(一打)懺悔細釈
皆さん、今夜この道場に入り御席について頂くに当たり、多くのお寺方のお手引のおかげで無事お座りいただいたことと存じます。
これは何を表しているかと申しますと、私達今日のこの日を迎えるまで、どれほどのおかげと御恩を頂いて来たかということを表しているのでございます。
生かされて、生きるや今日のこの生命(いのち)。まずこの世に生を受け、両親にいだかれ二年間と云うものは、下の御世話になり両親の骨身を削って育てていただきました。しかし私達は自分一人で大きくなったように思い、わがままばかり言い、不足ばかり言って来たのではないでしょうか。
どれだけの御恩返しが出来ましたかと言われますと、恥ずかしいのではないでしょうか。又、天地自然に対してはどうでしょうか。
天地自然の恩は限りないものです。
大いなる天地の恵みに、生かされる資格のない者が生かされておるにもかかわらず、開発という名目で天地に背いて自然を破壊し、地球の生命すら危なくして来たのではないでしょうか。
そして妻や夫や子供達、友達に対してはどうでしょうか。
わがまま勝手なことばかり言って来たのではないでしょうか。
私達は心の中に本当に恐しい心を持っています。
一人一日の中に八億四千の念あり、念々の中の所作、皆これ三途の業なりと。
私達は為すべきことを為さず、為すべからざることを為して来ました。
私達はこのままでは、阿弥陀如来様を悲しませることになるのではないでしょうか。私達は一体どうしたらよろしいのでしょうか。今さら作った罪過(つみとが)はどうすることも出来ません。
しかし、一つだけ助かる道がございます。
それは深い深い懺悔の心を起こすことでございます。
又懺悔と申しましても、口先だけの懺悔ではございません。そして罪を強制する打算的な懺悔ではありません。
私は悪い所もあるが、良い所もたくさんあるという、言い訳の懺悔ではありません。
人間は人目をはばかる、心を飾る動物であります。
しかし、この暗夜の道場では何も飾る必要はなく、人目もはばかりません。
一生に一回の懺悔道場です。
今こそ、素直な、生まれたままの心となって、心からの懺悔をして頂く絶好の機会でございます。
一人の人間として心から懺悔をする、一生一度の懺悔道場で御在居ます。
懺悔の懺とは、こんな私でございますがどうかかんにんして下さい。
懺悔の悔とは、悪うございました。頭を下げ切っていささかの弁解の心がないあやまり切ることであります。
本来ならお一人お一人今まで犯した罪過を一つ一つ吐き出して懺悔をしていただくのが本意ですが、これだけの多くの人がおられますと座もみだれますので出来ません。
依って皆様に代わってお寺様が今まで犯した罪過を一つ一つ吐き出して懺悔をして下さいますので、自分が懺悔をしていると受け取って頂きたいのでございます。
自らの罪、懺悔すべし、懺悔すれば即ち心安楽なり、懺悔せざれば罪増々重し。懺悔すれば、阿弥陀如来様の光に照らされて積れる罪ぞやがて消え、新しい自分となり、明日の伝法道場に臨んでいただき度く存じます。
懺悔細釈終わる。
以上暗説終わる。
まとめ
大和の先輩諸大徳からうかがったのは、懺悔道場は勿論のこと五重相伝の儀式は全て雰囲気が大事であるということでした。例えば、晨朝法要、日中法要、日没法要、贈五重、剃度式懺悔道場(光明道場含む)要偈道場、密室道場それぞれが、それにふさわしい工夫が大切で照明、打敷、和ロウソク、洋ロウソク、朱ロウソク等、細かい神経を使うことが大事なのです。
お釈迦様の戒めの心が私達現代の日本人社会、家庭から消失しているだけに、心からの懺悔をして阿弥陀如来様の大慈悲の光に照らされてこそ、私達は救われるのであると理解していただき、現代こそ荘厳で厳格な懺悔道場を別開し、心からの懺悔を促すよう厳修すべきと存じます。
合掌
参考文献
『浄土宗教学大係』中野隆元 大東出版社
『浄土宗の五重説法』井川定慶 教育新潮社
『結縁五重撮要』滋賀教区発行
『元祖大師御法語講話』林 隆硬著 知恩院布教師会刊
『浄土宗大辞典』浄土宗発行 山喜房仏書林
『望月佛教大辞典』世界聖典刊行協会
『新浄土宗辞典』恵谷隆戒著 隆文館
『織田佛教大辞典』織田得能著 大蔵出版株式会社
『岩波仏教辞典』中村 元 他 岩波書店