(2)「解」について
讃 題
『ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず』(十念)
初重は、法然上人の『往生記』を戴き、これを「機」と伝え、「いかなる愚かな者にても」と、お受けとり頂きました。
二重は、聖光上人の『末代念仏授手印』を戴き、これを「行」と伝え、「南無阿弥陀仏と称うれば」と、お受け取り頂きました。
そして次は三重、これを「解」と伝えます。
お手本と頂きますお書物は、『領解末代念仏授手印鈔』三祖良忠上人の御作であります。
浄土宗の三代目良忠上人は、八十九歳までご長命を保たれ、多くの方々にお念仏をお勧めになった大布教家であり、八宗・九宗に亘り学問なさった大学者であり、またたくさんのお書物、注釈書を残して下さった大著述家でもありました。そんなところから、のちに陛下より記主禅師というお名前を頂かれ、また然阿上人とも申します。
「売り家と 唐様で書く三代目」などと世間で申しますが、初代が大変苦労して多くの財産を残し、二代目はこれをあてにして楽々と暮らし、三代目には住んでいる家も売り家にするほど苦労するといわれるように、三代目がしっかりしてないと、家の歴史は続かないといわれます。
そこへいきますと、浄土宗の三代目にはこんなすばらしいお方を頂いたのであります。
この方は今で申します島根県、当時は石見の国と申しました。石見三隅という所で、正治元年七月二十七日にお生まれになりました。お父さんのお名前を、藤原円尊、お母さんは伴氏と記されています。
たいへん信仰篤き家にお育ちになり、またたいへん賢いお子であったようで、初めて開いたお書物でも、八十行の文章はひとめ見て、パッと頭に入ったといわれています。
十一歳の時に、三智法師というお坊様が当地をお訪ねになって、ご両親をお相手に、恵心僧都の『往生要集』を講義されるのを、おそばで聞いておられた良忠様が、その内容をしっかり頂いておられたと申します。たいへんなお方でありました。
やがて十三歳の春、鰐淵寺という天台宗のお寺に入られ仏道修行が始まります。十四歳のお正月、自ら和讃を作り、
「五濁の浮世に生まれしは、
恨みかたがた多けれど
念仏往生と聞く時は
還りて嬉しくなりにけり」
と唱えしきりに称名念仏されたと申します。いかに『往生要集』の心を頂いておられたかという事であります。
十六歳で出家得度を果たされ、鰐淵寺は天台宗でありますから、法華の修行にもはげまれました。
十八歳のとき、たまたま『大聖竹林寺記』を読まれ、法照禅師が、五台山竹林寺に詣でてご本尊文殊菩薩に対し、
「末法の凡夫何の法を修すべきや」と尋ねたところ菩薩答えて、
「汝よくよく念仏せよ、今はその時なり、諸々の修行も念仏には過ぎず。西方に阿弥陀仏在し、彼の仏の願力は思議すべからず。命終には決定して彼の国に往生すべし」
ここに大いに心動かされ、日課念仏一万遍を誓われたと申します。
その後、天台の学問のみならず、奈良京都をはじめ諸国を遍歴され、諸宗の学匠を訪ね、あらゆる教え、つまり八宗・九宗、仏教学全般にわたる研鑽を積まれ、のちに滋賀県の園城寺、三井寺におでましになりました。
三十四歳の時、石見のお母さんが亡くなられたという悲しい知らせが届き、それと同時に、八宗・九宗にわたり勉強してみたけれど、これで心配ないという確かなるものが頂けない失望もあって、石見の国へおかえりになります。多陀寺にこもり不断念仏修行をなさっている所を、生仏法師という九州英彦山の行者がお訪ねになり、これがご縁で、良忠上人が、浄土宗のお念仏の道におはいりになるのであります。
生仏法帥は、英彦山でお念仏の教えを聞かれますが、これを詳しく頂戴したいと思われ、どうせ学ぶなら本家本元のお師匠様につきたい。誰しも思う事でありましょう。
お念仏の元祖様は法然上人、しかし法然様はすでに亡くなっていらっしゃる。ならばその教えをもっとも正しく受け取っておられるお弟子はどなたであろうか。法然様には多くの門弟がいらっしゃる。京都には、隆寛様という高弟が居られる。またのちに西山浄土宗を開かれる証空様も居られる。そして九州には、聖光様も居られるが、その中どなたをお師匠様としたらよかろうかと、はるばる信州信濃の善光寺をお訪ねになりました。
明日は善光寺にとどくという前の晩、榊の宿にお泊りになりますが、その晩の夢にひとりの高僧がお出ましになり、
「はるばるここまでお訪ねになりましたが、貴方の居られる九州に、聖光様がいらっしゃる。このお方こそ浄土宗の二代目を継がれたお方、お師匠様と仰ぐお方はこの方をおいて他にありません」
とのお告げをいただかれ、喜ばれた生仏法帥は、善光寺に詣で、七日間のお礼のおこもりをなさり、九州へとってかえす道すがらお立ち寄りになったのがこの多陀寺でありました。
経緯をお聞きになった良忠上人は、心に何か確かなるものを頂きたいと思い悩んでおられましたので、「生仏法師に遅るることわずか一日にして」とありますから、もう居ても立っても居られず、あとを追いかけて九州久留米の善導寺をお訪ねになりました。
嘉禎二年九月七日と記されていますが、あいにく聖光上人はご不在で、翌日、出先までお訪ねになり、上妻の天福寺(福岡県八女市)ではじめてご対面あそばされたのであります。
そのとき聖光上人は、すでに七十五歳になっておられ、この方は七十七歳でお亡くなりになりますから、もう最晩年を迎えていらっしゃる。その聖光上人には大きな悩みがありました。
「こうして多くの弟子は育てたが、浄土宗の三代目はいったい誰に譲ろうか」
とその法器、おめがねに叶うお弟子が見あたらずにおられた。
そんな所へ、仏教学全般を修めた若き学徒が飛び込んできたのであります。聖光上人はお喜びになりまして、夜に日をついで浄土宗の教えのすべてを、わずか一カ年の間にお伝えになったのであります。
一年ほどが経ちましたとき、お弟子方の前に良忠様を引き出され、
「然阿は弁阿が若返るなり」と申されて、「この方は、私が若くなったと思って、今後もし不審なことがあるならば、この方にお尋ねしなさい。今日より浄土宗の三代目をこの人に譲る」
と宣言されまして、法然上人から継承したものすべてと、自分でお示しになった二重のお巻物『末代念仏授手印』を添えてご相伝になったのであります。
これをお受けとりになった良忠上人は、お師匠様のお考え、浄土宗の教えをこの様に受け取りました、領解致しましたと、お書物にしてお返しになりました。
これに目を通された聖光上人は、
「短い間ではあったが、よくぞここまでお受け取りになりました。私がお伝えした事と、貴方がお受け取りになった事は、寸分違う所はありません。合点が行きました」
ということで、この三重のお巻物『領解末代念仏授手印鈔』を「合点の書」ともいわれるのであります。つまり三重は、二重の『末代念仏授手印』というお巻物をこの様に領解しましたというお書物ですから、内容については二重ですでに済んでいますから、ここでは「領解」ということについて少し申し上げておきます。
「領解」とは、詳しくは「領納解知」と申しまして、「分かった」という事でありますが、その分かり方にもいろいろあります。
まずは耳で聞いて分かるということ、これを「聞慧」と申します。これは分かりも早いのですが忘れるのも早いのであります。
「聞く時は、げになるほどと思いつつ
下駄はくときはとうに忘るる」
であります。これでは分かったとは申せません。
つぎは「思慧」、頭で考えて分かるということ、これでも実際の役に立つものではありません。
頭の中でどんな難しいことが分かっていても、日暮しに現れてこなければ、やはり分かったとは申せません。
三つ目に、「修慧」と申します。耳で聞いて分かったこと、頭で考えてなるほどと了解したことを、自分の体で何回も何回も繰り返し行って、頭で考えなくとも勝手に行いとなって現れてくるような頂き方。これを物が分かったというのであります。
ところで皆さん方、今朝お家をお出かけになる時、最初に出された足は右でしたか左でしたか。そんな事いちいち覚えていませんよね。
どちらかを最初に出されたはずですが今では分かりません。それは頭で考えて歩いてきたわけではないからであります。
でも始めからそんなに上手に歩けたかというと、どうでしょう。這い這いから始まって、ヨチヨチ歩き、何度も何度も繰り返し行って、今では考えなくても勝手に歩けるようになった、そんな頂き方を物が分かったというのであります。
一度泳ぎのできた人は、五年十年泳がなくとも、水に入ったらちゃんと泳げる、一度自転車に乗れた人は、しばらく乗らなくても次はちゃんと乗れる。それは頭で知っているだけでなく、体が知っているからであります。
どんなに難しいことでも、耳で聞いて頭で理解していても、それが生活の上に現れてこなかったら、知らないのも同じこと、自分のこととして、我が身に引き取って分かりましたという分かり方、これを「領納解知」、「了解会得」、「領解」と申します。
日本は資源の乏しい国ですから、水が大事、電気が大事、これくらいは皆わかっています。
しかし親掛かりの世帯か、自分の世帯かで分かり方が違う。親掛かりで生活している時は、無駄な電気が点いていても気になりません。水道の水がこぼれていても平気ですが、自分の世帯となったらそうは参りません。
ある寺の五重に参りました時、そこのお嬢さんが毎朝車で送り迎えをしてくださいました。その運転がたいそう上手でしたので、
「あなた運転上手ですね」と申しましたら、「はい、父の車を運転している時はよく擦りました。でも自分で車買ったらいちども傷つけた事はございません」
分かりかたが違います。他人事か自分のことかで分かりかたが違います。自分の事として、我が身に引き取って分かることを「領解」ともうします。
二重『末代念仏授手印』に、浄土宗の教えのすべてが説き収められましたが、その結論である「結帰一行・南無阿弥陀仏」を、我が身に引き取り、自分の事として頂戴致しましたという受け取り方を「領解」というのであります。
法然上人は、
「名号を聞くというとも、信ぜざれば聞かざるがごとし。たとえ信ずというとも、称えずんば信ぜざるがごとし」
と仰せられました。
こうして何日も、重ねて勧誡を聞いて下った皆さまです。お念仏がどんなものかは十分お受け取り下さった事と思います。
お念仏は、阿弥陀如来のご本願、申せば凡夫の私でも必ず往生させて頂くという事は、お受け取り頂いたと思います。
では、それだけで往生ができるかというと、そうは参りません。いかに詳しい教えを知っていたとしても、口に「南無阿弥陀仏」と称えなかったら往生はできないのであります。
しかし、お念仏の詳しい訳柄は何にもわからないけれど、口に「南無阿弥陀仏」と申すお方には、阿弥陀様の本願他力が働いて下さって必ず往生させて下さるのであります。
教えを聞いて知っていても、申す事がなかったら、お念仏と私が、阿弥陀様と私が別々で、私のものとはなって下さらない。私が「南無阿弥陀仏」とお念仏申してはじめて、阿弥陀様が、私に添いまして下さるのであります。
「食べぬ昔は畑の野菜、
食べてしまえば我が体」
どれほど栄養価のある野菜でも、畑にあるあいだは私のものとはなりません。食べてはじめて私の力となるのであります。
明治の高徳が、
「薬のわけは知って良し知らんで良し、飲むか飲まんによるのである。念仏のわけも知ってよし知らんで良し、申すか申さんによるのである。」
と教えを残しておられます。
今の時代は薬害という事が言われますから、当然、薬のわけは知っていなければなりませんが、明治のお方ですから、例えは古いかもしれませんが、どんな立派な薬でも見ているだけではききません。飲んではじめて、効能が現れるのであります。お念仏もその通り、申すか申さんによるのであります。
お念仏申した時に、仏は声に応えて、私に添いまして、私の生きる力となって下さるのであります。
これはなにもお念仏に限った事ではありません。
お釈迦さまは、この世の実相を「諸法無我」とお説きになりました。つまり世のすべての存在は、たったひとつで存在している物は無い、すべての物は、関わりあい関わりあいして存在しているという事であります。
たとえば電気、これも目に見ることは出来ないけど、プラスとマイナスがうまく溶け合ってはじめて、熱という力も、光という働きも創り出されるのであります。
また水、これを化学では「H2O」と表します。それは水素と酸素が二対一でうまく溶け合っているのが水ですよということ、これが一対一で溶け合うと、もうそれは水ではなく、「H2O2」はオキシフル、そんなもの飲めた物ではありません。
では水が、水素二と酸素一とで出来ているというならぱ、水素二と、酸素一とを別々に持ってきて、これを同時に飲んでみたら喉の渇きを癒す事が出来るか、それは無理でしょう。
別々に飲んでも効かないものが、二つが溶け合う事でそれぞれにはなかった喉の渇きを癒す力、草木を育てるという、新しい力が創造と、創り出されるのであります。
私達の家庭がまさにその通りではないでしょうか。どれほどの財産が有ろうとも、どんな立派なお家に住んでいらっしゃろうとも、家族の心がばらばらでは、その家の力を発揮することはできません。たとえ暮らしは貧しくとも、家族が向い合わせ、合掌の日暮らしが出来るならば、これほどの幸せはなかろうと思います。
親子夫婦兄弟、これはあんがい溶け合いやすいようですが、難しいのは「嫁・姑」といわれます。
その仲の悪いお家でも、最初からうまく行かないわけではありません。お嫁さんがきまったという時なんかどれほどお慶びですかね。
「ねー、ちょっと聞いて、私とこお嫁さんもらいますねん。いまどきこんな人いてはったかと思うほど、ほんま福嫁さんですわ。これで私もやっと楽させてもらえます。徳とらしてもらいましたわー」
と大喜びです。
それがそのまま続いたら良いのですが、半年も経たない間に変わります。
「もうちょっとましな人やとおもたのに、朝はなかなか起きては来はらへん。料理というたら、チンチン料理ばっかり、鋏とレンジがあれば料理ができますねん。」
そんな思いが、胸でじっと留まっていればいいのですが、これが「コロコロ」動き出し、顔に出たり目に出たり、会話もめっきり少なくなって、
「物はいわねど目に角たてて、
姑心の恐ろしさ」
古いお説教の本にあるお歌ですが、本当に恐ろしいことでございます。
そうなって、若いお嫁さんがだまっているかといいますと、負けていませんね。
「そちら様がそういうご了見ならば、私とて考えがございます」
と宣戦布告であります。
ここまでくると、もうお姑さんは体力勝負ではかないません。学校時代の鍛え方が違う。バレー、バスケット、柔道、剣道、空手までやっている人もありますから、「この日のために鍛えたからだ」とても太刀打ちできません。
ここに気づいたお姑さんが、お念仏を申し始めるという。これは結構な事であります。しかし、お念仏だけならよろしいが、中にかやくが入ると申します。
お念仏のあい間あい間に、目についた家の中の小言が混じる。それを聞いていたお嫁さんも黙ってはおりません。
「朝夕に小言まじりの空念仏は
さぞや仏もおかしかるらん」
と、そんな事を言って歩くものですから、たちまち近所中の評判となって、ご近所には確かにお嫁さんの応援団もおられるが、必ずお姑さんの味方もおられます。「ここだけの話」のつもりが、広がり広がって、いつしか敵陣営に漏れるところとなり、早速そこからご注進、
「あんたとこの若い人、隣近所でこんなこと言うて歩いてはりまっせ」
「そうですか、そんなこと言うて歩いてますか。でもね、あなたそう仰るけど、一度家へ上がって一日見ててごらん。目に付いて黙ってられますか。そりゃ言いますよ。家の後々が気になりますもの。お念仏は申しますよ。後生はお浄土へ生まれたいですもの」
「朝夕に申す念仏は後生のために、
まじる小言は家のためなり」
どこまでいっても口は達者でございます。
しかし、これではどこまで続く泥濘ぞ、お二人の心が向い合う事はないでしようね。
うまく行かないお家を見ていますと、共通の間違いがあります。それはサングラス、色眼鏡です。かけて見たら分かりますように、本当の色が見えなくなります。
人間誰しも百パーセント長所ばかりという人はありません。そのかわり百パーセント欠点ばかりという人もありません。長所短所の織り交ざったものが私達の存在でありましょう。
そのサングラスを、はずして頂いたらどうでしょう。気に入らないところもあるかもしれないが、かわいいところも見えてくるはずであります。
「なるほど、朝はなかなか起きてきはらへんけど、考えてみたらもっともな事、私達は五十年六十年長い事寝てきてる。寝かたは十分足ってる。ところが向こうさんたかだか二十年、そりゃまだまだ寝かたが足らん。まして、私の大事な息子を一生面倒みて下さるお方なら、預けておいた娘がようやく帰ってきたと思って育てていきましょう」
と、お姑さんがここまで方向転換して頂いたなら如何でしょうか。一日二日では無理でしょうが、「魚心あれば水心」、いつかその思いは、お嫁さんにも届いていくことでしょう。
「だいたいがお年寄りというものは、半分空いた米俵、口が軽くて尻が重い」
と聞いていたけれど、
「家のお姑さんに限ってそんな事はない。まして、私の大事なご主人様を産んで育ててくだっさたお方なら、実家の母やと思って、お仕えさせて頂きましょう」
お二人の心が向い合わせになった時、お二人の心が溶け合った時にはじめて、それぞれがはじめには持っては居なかった新しい力、そのお家を切り盛りしていく尊い力が、創造と、創り出されるのであります。
さあ、「この山、ひとりで越して行け」、「この川、ひとりで渡って行け」こう言われたらどうでしょう。こんな険しい山、こんな流れの速い川、とても私ひとりの力ではどうにもなりません。そうなると山の麓に、川岸にじっと佇む以外には術のない愚かな、力ない我が姿あります。
そんな時、
「そんなお前でも良い。我が名を呼べ、私が一緒に越してやろう。私が一緒に渡ってあげよう」
と声が聞こえたらどうでしょう。その声に縋る以外にはありません。
その声をたよりに、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏申して行く時に、応声即現と私に添いまして下さる、そのみ仏の大いなる力をいただいて、ひとりで越して行けないその山を、ひとりで渡れないその川を、み仏さまと越させて頂く、渡らせて頂くのであります。
初重のお勧め、「愚かな私」であるけれど、二重「南無阿弥陀仏と唱うれば」必ず弥陀の浄土に往生させて頂く事ができるということを、我が身に引き取って、なるほどと頂戴させて頂きました。これが三重のお受け取りであります。
石見の国から、九州久留米をお訪ねなさった然阿良忠上人が、この教えをどのように領解なさったかと申しますと、
「私がお師匠様を訪ねて参ったその時の心の中は、一寸先が見えないほどの暗闇でございました。そして一年経った、今日の私の心はどうかと申しますと、やはり闇は闇に違いはございません。しかし、ここへ参りました時の暗闇は、これからどこまで暗くなるかという宵の闇と感じておりましたが、それから一年お念仏を申しました今の心の闇は、もうまもなく明々と明け初める明け方の闇と感じております。
愚か者の私でも、お勧めの通りお念仏を申して行くならば、もうまもなく明々と開ける、弥陀のお浄土へ往生させて頂けるということを、我が身に引きとって領解させて頂きました」
とお受け取り下さったのであります。
ですからこれは、五重相伝済んでからのお楽しみでございます。
明日「正伝法」が終わりますと、五重相伝は無事満行となりますが、これでおしまいではありません。むしろここからが、始まりであります。
これからは、お誓い下さった日課称名三百辺以上のご相続に励んで頂くのであります。
毎日毎日、お誓い下さったお念仏を申して下さる中に、かならず「なるほどこのことか」という実感をいただく日が参ります。どうぞその時まで、日課称名怠りなくお励み頂きますことを切にお願い申し上げます。そこのところを、法然上人は『一枚起請文』の中に、
「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず」
と、お示し下さいました。
「いかなる愚かな者にても」(初重)
「南無阿弥陀仏と唱うれば」(二重)
「往生するぞと思いとり」 (三重)
とお受けとり頂きまして、つぎ四重に進ませて頂きます。
以上三重を終わる。