二、教諭を拝して
 
 
 五重相伝 三重―解の巻に関連して

 ◎三重の中心姿勢は解であることについて
 五重第三重の伝書『領解末代念仏授手印鈔』については、「解」が中心課題とされている。
 それは、浄土宗二祖聖光上人から、その著『末代念仏授手印』(第二重の伝書)を、三祖良忠上人が伝授され、その理解され、領解されたところを、『領解末代念仏授手印鈔』として記述され、二祖上人の認可を受けられたことによる。正しく第三重の相伝の書である。
 その内容は全て『末代念仏授手印』ではあるが、良忠上人が自分自身に口授され、領解し、さらにまとめも加えた内容を、改めて認可を受けるというものである。口移しのままではなく、上人自身の理解、納得の相伝の書である。
 従って、領解ということが特色であることから、この伝巻は、約して「解」を中心課題とするのである。内容をそのまま相伝することはもちろんながら、宗義を相伝されるものの、領解、納得が要求されることとなる。
 それは単なる学的理解ではない。教諭の中に、「還愚の御意を体して」と二度も示されていることが、その心のありようである。念仏信心は、理解ではなく領解であり、心身ともに納得されて初めて念仏の道である。頭の理解だけではない。

 ◎解釈と理解から信の強化へ
 解というと、このように領解・納得ではあるが、解釈・理解という意味も考えるべきであろう。浄土宗の建前として理屈を言わず専念念仏すべし、ということが偏向してしまうと、とかく現代と逸れてしまいがちとなる。
 念仏の法門に於いて、理屈に走ると、先輩筋から、念仏の申し方が足りぬという言葉がしばしば聞かれる。確かに念仏は観念の念ではないのであるから、心すべき事ながら、それ故に、法話の席でも、宗乗の内容が伝えられることが少ないのではなかろうか。ある先輩の古老は、浄土宗の説教は因縁話が多くて法談が少ない、と嘆いておられた。もちろん、現代は進んだ内容と工夫がなされていることと思うが、法談が少ないということは、教義、宗乗にかかわる説法が少ないということである。
 しかし五重は老若男女、仏教も浄土宗の理解の程度も様々な人が、諸所から参集して受講に来るのであるから、平易で、分かりやすく、興味をもって聞かれるように進行されねばならないという難しい問題がある。この道の御先達の御著書や記録は生きた宗乗として有り難いものである。
 この解釈、理解についてのことで、参考までに、次のような一老僧、私の述懐を聞いていただきたい。私は六歳で得度、朝は師父と共に本堂勤行、夕刻は一人で勤行、次第に法要にも出、時には火葬場の誦経で独り緊張の回向もやらされた。四誓偈は小学校で暗記していた。僧はみな通常の経本を諳んじているのが一人前と感じさせられていたから。
 十二、三歳の頃と思う。不審に思った。お坊さん方は、極楽は当然のこととして、読経、法事に従っておられることであった。父に質問した。父なればこそ質問しやすかったのであったろう。極楽はあるの、と。師父は答えた、大きくなると分かると。それから今日までこのことはいわば生涯かけての公案として思い続けた。
 今顧みると、このことで、お経のどこに説かれているか、も説明はなかった。一掃除、二勤行の徹底した寺庭生活、三部経は中学までに、金火箸で経文の字を押さえながらの師資教授であった。それは、どの寺庭でもそうであったと思われる。しかし、専ら読誦であって、意味は一字も教わらない。
 それは今日でも、僧養成には、理解より実習、法儀に重点があるように思われる。極言するならば、お経は読むが、意味や意義も分からない、ということがあり得る。その結果、読誦、法要の機会があるのに、それ自体の意味や意義の解釈や理解が省略されるという場面も多い。
 説法が苦手という方もあるが、一つの方法として、これらの解説から入っていけば、話が進めやすいものである。各人各様にあるはずである。例えば、我が宗は浄土宗、いうなれば往生浄土を目的とするが、それは、本堂の中で、体験的に理解できるように巧まぬ伝統の浄土宗寺院の荘厳の中に説法がある。端的に言うならば、説教の台本を見なくても、本堂の荘厳を語ることでも説法である。
 まず、法要参加の人々が注目する所は、ご本尊、弥陀三尊、その両脇の観音勢至菩薩、この説明の元である導師の左脇の経巻立の三部経、正面には説相箱に法語、『選択本願念仏集』、回向簿等が整っていて、それのどれかの関連の法話でも、説明でもできるような環境がある。しかし、これまで私は聞いたことがない。信は荘厳よりという。一歩進んで、解説が伴って、信が次第に強まる。特に、住職、寺僧の話は上手下手等は問題外で、そのくりかえしの中で、信が強まる。
 私は言う、私は同じような話を繰りかえすかも知れませんよ、と。ある人は言う、こういうことは何度でも結構ですと。たしかに、信心のお話が毎回毎回違った話とはならない。しかし解説理解のくりかえしの中に信が固まっていく。

 ◎理解・解釈から信解へ
 さて、古来、仏教では、心の道というか、修行の道には、解釈から、次第に、解釈に留まらないで、信解(adhi-muktti)ということが言葉としてある。解(mukti)は解脱であるが、信解は、教えや仏に対して、無条件に心身ともに帰依することをいうことばである。漢訳の信解が示すように、信仰によって、仏に対して心身放下することである。心も身もすべて仏に委ねる。この言葉は、信解、決定解、心解、明信などとも訳されているが、それぞれ、この心というか、理解による信心のありようを、示しているようである。
 ひたすらに念仏、一心専念ではあるが、それを育てる宗旨の理解、否、それだけでなく、解釈、説明の中に、信心も醸成され、信心の輪も広がるのである。解釈不可欠ではないにしても、初歩的な理解や解釈から信仰の道も固まり、同信の絆も強く、願共諸衆生往生安楽国の信解へと連なるものである。
 先ず、浄土宗の信者として当然知っていて欲しい言葉、基礎的な言葉を理解することが、現在、もう少し徹底することが望まれている。五重は、時間、受者構成等々の面で難しい面もあるが、これを充足していくことが信の徹底、つまり、信解へと深まる。
 第三重に於いて、それが法然上人の「還愚の御意を体する」、我が身、信者の身につけること、信解―「解」になっていく、と了承する。