1、信法の内容とそれを成立させる根拠
昨年の拙稿において筆者は、初重伝書である伝法然上人撰『往生記』に説かれる「機」の淵源を辿れば、善導大師の『観経疏』散善義深心釈中、信機を明かした一節に帰結し、同時にそれは、それに続く信法と表裏一体となって構成されている、と述べた。
この信法について法然上人は「のちの信心について二つの心あり。すなはちほとけについてふかく信じ、経についてふかく信ずべきむねを釈し給へるにやと心えらるゝ也。まづほとけについて信ずといは一には弥陀の本願を信じ、二には釈迦の所説を信じ、三には十方恒沙の護念を信ずべき也。経について信ずといは、一には無量寿経を信じ、二には観経を信じ、三には阿弥陀経を信ずる也。すなはちはじめに決定してふかく阿弥陀仏の四十八願といへる文は、弥陀を信じ、又無量寿経を信ずる也。つぎに又決定してふかく釈迦仏の観経といへる文は、釈迦を信じ、観経を信ずるなり。つぎに決定してふかく弥陀経の中といへる文は、十方諸仏を信じ、又阿弥陀経を信ずる也」と述べられ、弥陀・釈迦・諸仏という三仏および三仏同心による仏説としての「浄土三部経」をしっかりと信じることが信法に他ならないと明言している。
もちろん、そうした言及をなし得るのも、法然上人がご自身の三昧発得によって阿弥陀さまや極楽浄土のありさまを目の当たりに感見し、その実在を確信され、同時に、そうした三昧発得の体験を通じ、あるいは二祖対面を通じて「信機・信法」を語られた善導大師こそ弥陀化身であると確信し、その説示を仰ぎ偏依されたからに他ならない。
(平成14年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「行」より)