4、奥図の意義
 「行相」の説示に続く「奥図」において聖光上人は「三心も南無阿弥陀仏、五念門も南無阿弥陀仏、四修も南無阿弥陀仏、三種行儀も南無阿弥陀仏」と記し、さらに一連の説示のまとめとして「釈して曰く、我が法然上人の言わく、善導の御釈を拝見するに、源空が目には、三心も五念も四修も皆ともに、南無阿弥陀仏と見ゆるなり」と、善導大師の釈意を察せられた師法然上人自らのお言葉を据えられている。すなわち、行相において述べてきた三心・五念門・四修(・三種行儀)のそれぞれが念仏一行の実践に対して各別に認識されるのではなく、お念仏と表裏をなし同一視されるというのである。
 「行相」の一々がこのように認識される由縁については、既にそれぞれの項目においてある程度は触れてきたので再説は避けるが、法然上人のお言葉を通じて若干の補足を施しておきたい。すなわち、三心の項において言及した「行具の三心といふは、一向に帰すれば至誠心也、疑心なきは深心也、往生せんとおもふは廻向心也。かるがゆへに一向念仏して、うたがふおもひなく往生せんとおもふは行具の三心也。五念四修も一向に信ずる物には自然に具する也」というご法語である。このご法語において法然上人は、「一向念仏」を通じて願往生人に自ずから具わる「行具の三心」について述べ、続けて、三心と同様に浄土往生を目指してお念仏一行に励むことによって、五念門も四修も自ずから具わることを明言している。「行具の三心」同様、「行具の五念門」「行具の四修」と名付け得るほどの指摘ではなかろうか。三心ばかりか、五念門や四修が具えられるというのは次のような意味合いであろう。
 まず、既に述べたように、五念門の行体そのものが本来的に具えている性格から、それを修めている願往生人の実践は自ずと念仏一行へと収斂し、帰納されるようにと仕向けられることとなる。そうした必然的な流れは、裏を返せば次のような願往生人の一挙手一投足として顕現されることとなる。すなわち、意識しているといないとにかかわらず、五念門が収斂し帰納されている念仏一行を実践し相続している結果として、念仏行者自身の自ずからほとばしり出る身口意三業の働きは、あたかも五念門を忠実に実践しているがごとき働きとして演繹され、顕現される。それはまさに念仏一行の相続と五念門の実践とが同時並行的に成立しているありさまに他ならないのである。
 四修についても同様のことが言えよう。つまり、浄土往生を目指して念仏一行の実践に励む願往生人の自ずからなる身口意三業の働きは、意識するとせざるとにかかわらず、四修として望まれる日々の営みとなんら異なることのない念仏生活として顕現されることとなるのである。三種行儀についてもその趣旨はまったく同様である。
 「行相」に続けて表された「奥図」の意義は、まさにこうしたありさまの詮要を簡潔鮮明に図示している点にあろう。先に「行具の三心」について解説する際に述べたが、法然上人が提示された「行具の三心」「行具の五念門」「行具の四修」とも呼べる「わが浄土宗にとって肝要な教え」を聖光上人は見事におまとめになられたのである。もちろんそれは、『一枚起請文』において法然上人が「ただし三心四修なんと申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちにこもり候なり。この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の御法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べられた説示とまさに符号するのである。古来、この一連の説示が「結帰一行三昧」と呼ばれ尊ばれている由縁である。

(平成14年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「行」より)