2、「宗義」の構造
『末代念仏授手印』本文中、「宗義」として語られる「第一重・五種正行」「第二重・正助二行(業)」が、善導大師の主著『観経疏』第四散善義・深心釈中の就行立信において創設された往生行の分別、あるいは、それを受けた『選択集』第二章「雑行を捨てて正行に帰する篇」、引いては『同』第三章「念仏往生本願篇」の所説に基づいていることは言うまでもない。
初重勧誡において、この身このままで悟りを開くことを目指す聖道門の教えは絵に描いた餅に過ぎず、阿弥陀さまのお浄土にまず往生し、そこで悟りを開く道である浄土門に帰入する以外、私たちに残された道はないことが明らかにされ、すでに聴衆に自覚されている。『選択集』第一章「聖道浄土二門篇」の肝要が伝えられていると言ってもいいだろう。
そうした「機」の自覚に基づいた上で、浄土門に帰入した私たちに唯一示された往生行としてのお念仏へと至る筋道を明かすのが「宗義」についての勧誡となろう
・第一重・五種正行〜阿弥陀さまに親しい行〜
第一重・五種正行。正行とは、お浄土の教主である阿弥陀さまに向けられた正しい行であり、これに五種あるので五種正行という。
第一に読誦正行。『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」を拝読すること。
第二に観察正行。阿弥陀さまや極楽浄土を慕い、そのありさまを想い描くこと。
第三に礼拝正行。阿弥陀さまに対して礼拝を捧げること。
第四に称名正行。阿弥陀さまのお名前、つまり「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えること。
第五に讃歎供養正行。阿弥陀さまの功徳を褒め讃え、阿弥陀さまに対して物心両面から供養のまことを捧げること。
これら五種正行に対し、種々雑多な行を雑行と呼ぶ。例えば「浄土三部経」以外の経典の拝読や、阿弥陀さま以外のみ仏を想い描き、礼拝し、讃歎し、供養を捧げるなどの行を五種雑行と名付ける。もちろん、布施や持戒、坐禅や唱題などの行も雑行に含まれる。
この五種正行の中、第二の観察正行について法然上人は「五種の正行の中の観察門の事は、十三の定善にはあらず。散心念仏の行者の極楽の有様の相を像りて欣慕せる心なり」と述べられ、心の静寂が不可欠な要素である「定善」すなわち「観念の念」ではなく、散乱する心のままに阿弥陀さまやそのお浄土のありさまを想い描き、憧れ慕う心の働きとされている点は留意しておきたい。
さらに法然上人は「正行といふは阿弥陀仏におきてしたしき行なり、雑行といふは阿弥陀仏におきてうとき行なり」と示されているように、五種正行とは、私たちの思いを向ける対象がすべて阿弥陀さまであり、そのお浄土に限られる。だからこそ法然上人は、五種正行を阿弥陀さまと「親しい行」と述べられたのであり、阿弥陀さまとの関係において親しいかそうでないかが、正行と雑行との分かれ目ともいえるのである。
・第二重・正助二行〜お念仏のひとり立ち〜
第二重・正助二行(業)。第一重の五種正行は、さらに正定業と助業とに分類される。正定業とは、五種正行の中、第四番目の称名正行、すなわちお念仏を指す。そして、その他の前三後一の四種類の正行を助業という。
正定業の「定」には、さまざまな行の中から私たちにふさわしい本願往生行として、阿弥陀さまが選び「定」めてくださった「選定」と、そうであるからこそ、私たちがお念仏を称えれば必ず浄土往生が「定」まる「決定」との二つの意味が込められている。
それに対するのが助業である。「助」とは、「お念仏だけでは往生は難しいだろうから、それを補うのだ」といった「補助」の意味ではない。それら助業を修めることによって、ますますお念仏が励まれるようにと私たちを仕向けてくれるという意味(助発)なのである。その結果、必然的にそれらの助業は念仏一行へと収斂し、帰納されることとなる。たとえば法然上人は、読誦正行について「源空も念仏のほかに、毎日に阿弥陀経を三巻よみ候き。一巻は唐、一巻は呉、一巻は訓なり。しかるを、この経に詮ずるところ、ただ念仏申せとこそとかれて候へば、いまは一巻もよみ候はず。一向念仏を申し候也」とおっしゃっている。観察正行にしても、礼拝正行にしても、讃歎供養正行にしても、その軌跡は読誦正行と同様である。それらの行はみな、阿弥陀さまやお浄土に親しく心を向ける行であって、それを修めることによって私たちをお救いくださる阿弥陀さまに帰依する心が自ずから沸き起こり、そのお浄土へ往生したいと願い、お念仏を称えずにはいられなくなるからである。お念仏の大切さがいっそう身に染みわたるのである。
したがって、お念仏の他にあえて助業を加える必要などまったくない。法然上人が「本願の念仏には、ひとりだちをせさせて、すけをささぬなり。すけといふは、智恵をもすけにさし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとはいふなり」とお示しのように、浄土往生を遂げるには、お念仏だけで充分なのである。
このように「宗義」の構造は、「第一重・第二重」と分類されてはいるものの、両者は重層をなすものであり、前三後一の助業が本来的に有する性格を通じて、正定業たるお念仏ただ一行へと収斂し、帰納されることを念頭においておく必要があろう。
(平成14年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「行」より)