(二)『倶舎論』│通仏教の考えとして│の行に学ぶ
 『倶舎論』の行論というか修行の段階の骨格は項目的には次の如くになっている。説明の便宜上、〈 〉( )の文字を補って表示する。
〈A 行者の心構え〉三慧(・聞慧・・思慧・・修慧)
〈B 初心者〉 ・五停心 等三賢
          ・(苦・集・滅・道の四諦)四善根│(合計)七加行
〈C 修道者〉 ・見道│(理解 学習)│十五刹那│││(瞬間)
        ・修道│(実習・体現)│三大阿僧祇劫│(生涯、無期)
〈D 聖者〉  ・阿羅漢│無学道(悟得)
 『倶舎論』は我々浄土門からすれば、聖道門の側と考えられるかもしれないが、同じく仏道を歩む者で、参考となる考えも多く、また、そういう意味で、浄土門の「行」に示唆を与えると思って提言するのである。
 
 ◎〈A 行者の心構え〉聞・思・修の三慧と五重の専修
 先ず、三慧の一は聞慧であるが、視聴覚ご不自由なお方には、これは、視慧等でもある。各寺院には法要があり、説教がある。次代の法を継ぐ者は引僧の機会等は善き聴聞の機会と終始席に侍ることも心すべきことであろう。聞くことは智慧を生むが、仏道の場合には知識智慧もさることながら、聞くことによる仏道への目覚めの力というべきであろう。五重の場合には、五日間、一番中心となるのは、時間から言って、勧誡師の一言一句であります。受者は他に関心をそらされるものはなく、その多くの時間は、聴聞に集中する。大切なことはくりかえし説法される。これは、いわば薫習、匂い付けでもあって、此を受けて受者には聞慧が発生し、育つ。
 視聴教室が発達するにつけ、名布教師の説法を視聴覚機器に任せる、いわば、まる投げというのも、たとえ拙くても住職の生の声もないと、ちょっと、檀信徒として聞慧が未だしと思うことであろう。
 次の思慧は聞慧が高まるにつけ、念仏を思う心が、あれこれと構築なされることであろう。聴聞の合間、顔見知りを交えて法談も始まる事であろう。同じレベルでの気の置けない自分の言葉や用語で交わされること、法事のこと等々に到っても、同じ五重の仲間といることで、仏教の術語でなくても尊い会話が有ろうし、そこに、思慧も生まれることになろう。
 次に修慧であるが、修は反復修習の意味がある。数数修習とされて幾度も幾度も繰り返すこと、心に念ずることとさる。当の第二重では特に四修として重要であるばかりでなく、浄土宗は専修念仏と言われることからも、修の意義の大きいことが判る。五重の時は家業を離れ、忘れての専修期間であり、修の中から信心が生まれ、また、信心が強まり、有り難い先師の計らいの行事と尊く思われるのである。
 専修ということで、いつもお念仏が絶えないお寺の一つに、京都の古刹法然院のかつての情景が思い出される。常念仏というのであろうか、寺域に一歩踏み入れると、静かに、間隔をおいて木魚の音が聞こえて来る。間隔をおいた木魚の音で、それがご法要ではなく、一日中続くと知られ、夜は知りませんが、日がな一日、訪れるものに感銘を与えていた。  『選択本願念仏集』奉戴八百年記念行事に、増上寺慈雲閣で、浄土宗総合研究所主催の僧俗による随時参加の終日御別時が行われたが、ありようとして、その記念行事の本質的中心となるものであった。まさに、「一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人篭居して申すべし」の法然上人のお言葉を有り難く思うた事であった。かなり以前、一泊の団参を終えたある信者さんが言った。どこか、静かにお念仏させてもらえる所はないものでしょうか、と。今後、一つの考えとして、常夜灯のように、念仏専修の灯を、千年の常夜灯のように、一カ所、遠近僧俗随時参加で念仏の灯を灯し続けられないものであろうかと思われる。信仰により専修があり、専修の中に信心が確認されていく。その念仏専修の信心こそ修慧に当たるであろう。修慧は知識の慧ではない。専修から生まれる心である。

(平成14年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「行」より)