(2)「機」について 〜五重相伝・勧誡編〜
「五重相伝」は、本宗の信仰の要諦を伝えるうえで、「授戒会」と共に車の両輪をなす重要な法要であることは申すまでもない。
したがってこの法要を厳修するにあたっては、伝灯師は勿論、各配役を担当するひとりひとりが、重要な役を勤めるという自覚をもって当らなければならない。なかでも勧誡師は、担当する時間も長く、受者に対して最も大きな影響を与える立場であるから、十分な覚悟をもって厳粛に臨まなければならない。
「五重相伝」は、お釈迦様一代の教法の中、「簡にして要を得た」お念仏の重要なみ教えを、初重以来、第五重まで順次うち重ねて相伝するという事である。
またそれぞれに当ておかれた書物(巻物)があり、その巻物を通して(第五重は口伝)、初重より順番に、機・法(行)・解・証・信と、浄土宗の「宗義」と「行相」、つまりお念仏の教えと、お念仏相続の信仰生活の正しいあり方をお伝えするものである。
五日乃至七日の間に、これを伝え、お念仏の信仰を育てるということは並大抵の事ではない。先徳のご努力を思い、それぞれのお巻物の内容に配慮しつつ、現代という時代に即応した、できる限り平易な言葉で感銘深くお話を進める。そこに勧誡師としての研究と工夫が必要とされ、また自らの信仰が問われるところでもある。
「五重相伝」初重は、法然上人御作の『往生記』をお巻物と頂戴して、これを「機」と伝えることであるが、これを第一席よりいきなり説いたところで、受者に受け入れられるはずがない。
受者は、篤信者といわれるような方ばかりではない。その地方、その寺院によっても事情は多少異なるだろうが、五重の縁で、はじめて寺院へ足を運んだと言うような方もあり、また大変忙しい時勢でもあり、受者にとって五日間の日を空けることも至難のこと、なかには一日だけのつもり、三日だけ義理にかられて、と坐わった方もあるという状況で、そんな方々にも聞き耳をたてていただくためには、初日、しかもその第一席は極めて重要なものとなってくる。
そこで初重の中味に入るまでに、なぜ今五重か? 世間と出世間の違い。学校や職場で聞くことのない人生の問題。正しい宗教とは? なぜ宗教が必要か? またお釈迦様のこと、阿弥陀様のこと等々を、身近な例話を引き基本的なこと、その土台となるところをわかりやすく、初重の中味を含ませながら、初日を一日かけてお話するように、私は心掛けている。
初日が終る時、受者の方が「予想していた五重とは違う。明日もまた来よう!」そんな印象をもって頂けるようなお話が望ましいと常々思うところである。
まず第一席には、作法等々の事もあろが、讃題に『一紙小消息』より「受けがたき人として生をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり」を頂き、人の身を受けた事の悦びを説く。
天上界より糸を垂し、海底の針の穴を通すほど難しい確率の上に、今ご縁ととのって頂いた、この人の身に合掌せずにはおれない私に気づくこと。心の底から気づかせて頂くと、我が身の、我が命の尊さが実感されてくる。
そして、その命受けたればこそ、いかなる善縁のなすところか、こうして数多くの受者と共々にこの五重の座に連なったことが有り難く思われてくるのである。
おなじ人間として生まれ、大学者となる人もあり、大事業家となってゆく人もあり、富を築き、名をなす人も多く世間にはあるが、そんな人でも生涯、宗教と無縁のまま終ってゆく人もある。たとえ宗教に縁があっても、教えも多い中、宗派も数ある中に、お釈迦様の、また法然様のお念仏の教えに会い、今こうして白い浄衣を着てこの場に付かせて頂いたということ、よくよくの喜びであると思えてくる。
さて、そんな私の、今日までの日暮しがどうであったかと、み仏の前に心静かにふり返ってみる時、迷い迷った、道ならぬ道を歩んでいた我が姿に気づかされるのである。
人間として生まれ、ただ一人として幸福を願わぬものはない。そのために健康でありたい、長命でありたい、お金が欲しいと、自己中心に、我欲を満たさんがため願ってきた幸福が、真実の幸福ではなく、所詮はこの世で充たされることのない誤った幸福の求め方であったことに気づき、たとえ願い通りに手に入れることができずとも、喜べる世界のあることを気づかせて頂く所に真の幸福があることを、さまざまな例を挙げて説き進め、お釈迦様、法然様のみ教えに、これを頂くならば、この世も安心、のちの世も大丈夫であるという確信、「往生の一大事」の解決があることを説き、これこそ五重相伝の大目的であることを伝えることにしている。
第二席には、早くも初重、『往生記』、「知機」の言葉をもち出して、「我が身のほどを知る」、「私とは」のお話に入る。
これは単なる前置きの話ではない。普段の法要のお話とは違うという、緊張感をくずさないためにもそのようにしている。内容的には前方便の話が主となるが、「私とは?」、無常なる者、罪悪なる者、愚鈍なる者の自覚をうながすことを中心に進める。
ただ見れば、何の苦もなき水鳥の
足にひまなき 我が思いかな
あなた一人が苦しいのではない、あなた一人が悩んでいるのではない。顔にも言葉にも出しはしないが、どんな人でも生きている限り「四苦八苦」の苦しみを逃れることはできないもの。お金があろうとも、地位や名誉でも、またいかに丈夫であろうとも、この無常の理りを避けて通る術はあろうはずがない。とりわけ、人生最大の難関、「死」の大問題をどう決着するか。お釈迦様の「四苦八苦」の教えを正しく頂戴できると、現今世間を騒がせているような、いかがわしい宗教に惑わされるようなことはなくなってくる。
いかに正しい宗教を信心しようとも「四苦八苦」の苦しみを避けることはできない。しかし真の宗教に依って、心田のしっかりと耕された方には、
坂三里辛さが楽し里がえり
若葉のあなた 桃の咲く家
といった尊い心境が、自然と味あわれてくる。
ここに真の宗教と、似て非なるものの違いがはっきりしてくるのである。
その無常の問題に続いて、罪悪の問題。人間と生まれ誰しも、清く正しく生きたいという願いは持っている。しかし実生活は如何なものであろうか?。他人にこそ、気づかれ、知られてはいなくとも、我が身、我が心はどうであろうか。
我が心、鏡に写るものならば
さぞや姿の 醜くかるらん
お経にも、「一人一日の中に八億四千の念あり、念々の中の所作、皆これ三塗の業なり」と示されるように、思うこと、作すことがみな、罪を重ねることばかり。言葉で繕い、態度でごまかしてはいるものの、心の中は自分中心である。
無明煩悩にさいなまれた、我執の日暮しに明け暮れている。世間ではエリートと言われる、賢いはずの人でも愚かしいことをしてしまう。立派な洋服に身は飾っても、欲望がない訳でなく、腹もたってくるのである。
これは法然上人みずからも「十悪愚痴の法然」と申され、また「わが身は戒行において一戒をも持たず、禅定において一つもこれを得ず」と苦悩なされたことでもある。
法然上人ほどの、学徳兼備のお方にしてそうであるなら、ましてや我々凡夫には言うに及ばぬことである。ただ修行も浅いものでは、そんな我が姿にも気づき得ないまま明け暮れているのである。
気づかねどつもる袂のほこりかな
法律を犯すだけが罪ではない。道徳的にはいかがなものか。まして宗教上の罪(仏の目に見られた私)となれば、罪なしと言える人はひとりもないのである。
他の生命を頂かなければ、一日の命もつなぐことのできない、救われようのない我が身に気づいてみると「それで良いのか」、「そのままで良いのか」という内なる叫びが、はじめて起きてくるのである。
やがて人間終りの時がやってくる。さあその時はどうなってゆくのか。今日までは、目の前の快楽のみを、自己中心に追いかけてきた、愚かな我が姿であったと気づいてみると、これまでないがしろにしてきた精神世界の事が思われてくるのである。四苦八苦の人生を、地図もなく、行方も定めず漂っていた愚かな自分が頂けてくることに気づくと、はじめて確かなる師を求め、何を目標として、この人生如何に生きるべきかを、真剣に求めずにはおれなくなってくるのである。この問題に、確かなる解答、確かなる導きを与えるものこそ真の宗教であるといえよう。
人生の目的は何であるのか。命の終りにはどうなってゆくのか。もうひとつ加えていうならば、この人生にどこからやって来たのか。この三つは大事な問題ではあるが、愚かな凡夫に解決できるような簡単な問題ではない。
それはお師匠様であるお釈迦様に尋ねるよりほかに方はない。このことをお釈迦様は、
人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今ここに聞く。この身今生において度せずんば、さらにまたいずれの生においてかこの身を度せん
と説かれた。
この私は、六道の迷いの巷を生まれ変り死に変り、生死に迷い六道輪廻していたものが、いかなる善縁を頂いてか、尊くも受け難い人の身を受け、あまつさえ仏の教えまでも受けさせて頂いた。この二つの尊きご縁を生かして、彼の岸をめざさなければ、この度こそ生死の迷いを離れなければ、万劫末代に六道輪廻を繰り返して行かなければならないと、お示しになられている。
そのみ教えに従えば、どこからといわれたら、六道の迷いから、何しにと問われたら、六道の迷いを離れるために、どこへ往くと尋ねられるなら、二度と六道に還ることのない彼岸、弥陀の浄土へ往生すると答えることができる。お釈迦様は、生死の迷いを離れる教えを八万四千と示され、その中、法然上人は、西方極楽の阿弥陀様のもとに往生することを人生の大目標と定め、お念仏を勧められた。
阿弥陀様は、西方極楽より、今現在説法と、この世の父母がこの私にかけてくれたような情で、願で、尊き力でこの私に、はからい及んていて下さる。その尊きはたらき、まさに不可思議、不可計量のはたらきの相を、現実の譬えを挙げ、また親子の情愛を通し、尊く説かせて頂き初日の終りとしている。
二日目初席は、伝灯分等々あるが紙数の都合で省略して先に進むことにする。二席目より『往生記』の中味の話に入る。
『往生記』は、法然上人の御作ではあるが、上人はこれに題名をおつけにならなかったので『無題記』とも言われ、また内容の上から『往生得不得記』とも言われるように、その内容は、はじめに難遂往生の機、十三通りが示され、後に種々念仏往生の機、五種二十六通りの人柄が示されている。
まずはこの『往生記』を鏡と頂き、この機、つまり人柄はどちらに属するのか、自らに深く問いかけ、資格審査をしていく巻物と言える。
この巻物には、十三通り、二十六通りと詳しく示されているが、時間の都合もあり、その一々はお話もできないが、有り難いことにこの『往生記』の中ほどに、それぞれを四つに絞り、四障四機と示されるので、ここを取り挙げ初重の話を進めている。
ここに説かれる四障も四機も、別々のものではなく、すべてが関連しているものであるから、両方をかみ合せて説くことにする。
まずは疑心、人間は疑い心の深いもの、「倶生の惑」とも言われ、生まれついて持ち合わせているもので、簡単に取り払うことはできない。
しかし自らの機を疑い、法を疑う心があっては往生はできない。法の上から阿弥陀様、お念仏、西方浄土を疑っては、お念仏の信心はなりたたないことになる。
ここでは特に、阿弥陀様を中心にお話を進めることにしている。
仏様のおはたらきの上から説くならば、法・報・応の三身に説くことができる。しかし理屈で頂き、理解ができたからといって救いの力となるものではない。結局は、目に見える仏様ではなく、また、私達の知恵知識におさまる仏さまではないが、私の申す念仏を聞き遂げて下さり、礼拝を見ていて下さる。声に応えて下さる西方浄土の、報身阿弥陀如来である。そしてこのことが頂戴できないと、生きる力、信仰の力とはなり難いという事を強調して大事に説かせて頂いている。
報身の仏は、凡夫にとって目に見えぬお方であれば、信じにくいのは確かであるが、目に見えずとも信じているものは沢山ある。明日という日は、見えるものではないが信じている。愛は、空気は……。
秋来ぬと 目にはさやかに見えぬども
風の音にぞおどろかれぬる
秋は、目に見えるものではないが、耳に聞える風の音に、また目に見える木の葉の色によって、心に秋を感じ取ることができる。
仏は常にいませども、うつつならぬぞあはれなり
人のおとせぬ暁にほのかに夢に見えたもう(『梁塵秘抄』)
知恵、知識に頂く世界ではなく、不可思議、妙界に頂けるもの、このことは、百四十億の脳の神経細胞の使用状況を譬えに使うとわかりやすいと思う。
我が身の本当の姿が頂けず、無常、罪悪、愚鈍が他人事である時は、対岸の火事で済まされようが、いつかは必ず我が身にふりかかるもの、その時は真剣にならざるを得ない。信じざるを得ない時がくる。(そのことは身近かに沢山の例話がある事と思う)
その時にはじめて、目に見えるものではないが大いなる救いの力(他力)にすがる心が起きてくる。大いなる力におまかせする心(信心)の人柄とならせて頂くことができる。
ここに気づいてみると、申さなければならない念仏(懈怠)ではなく、申さずにはおれないところのお念仏(精進)となって申されてくる。
(法然上人と親鸞聖人との出会のエピソード等)
ふり向けば、ご恩を受けし人ばかり
この愚かな、罪深い、救われようのないこの私を、生かさんがために、どれだけ多くのはたらきがかかわって下さったことだろうか。あたりまえ、当然と思っては勿体ないのである。
天地の恵み、親の恩、衆生の恩、まさに「冥加」(目に見えない加祐)である。思議すべからざる事「不可思議」である。私が生きてきたのではない。ようこそ今日まで生かして下さったものである。
生かされて生きてきた我が身が、合掌と頂けてくると、「おれ我おれ我」の自力の角が折れ、自力で(私の力で)迷いを離れられるような私ではなかったという自覚が生まれてくる。
本来救われようのない私(罪悪生死の凡夫)を救わずにはおかないと、尊くも、誓い給うた弥陀の本願他力にうちまかせ、自力難行の道を捨て、「仏さまどうぞ!」とすがる思いの「南無阿弥陀仏」、ただ信じてのお念仏、これを「単直の仰信」と申され、ここに高慢がおきるはずはないのである。高慢とは、お念仏申す上で起るおごり高ぶる心をいい、往生の障りと戒められている。
また『往生記』には、種々念仏往生の機として五通りのお示しがある。
一、智行兼備念仏往生の機
二、義解念仏往生の機
三、持戒念仏往生の機
四、破戒念仏往生の機
五、愚鈍念仏往生の機
その中、浄土宗第一の機は、
善知識の教えを聞きて一向に信を生じ、威儀法則を弁ぜず、行住坐臥を論ぜず、日夜に念仏して、ひさしくその功を積みて往生する人
である。第五番目の「愚鈍念仏往生の機」とお示し下さっている。
一人ではとても生きてゆけないこの私(他力)。救われようのない一文不知のこの私(卑下)。そんな私でもお救い下さる阿弥陀様と信じ(信心)、すがる思いで、申さずにはおれない「南無阿弥陀仏」(精進)とお念仏申す人柄こそ、浄土宗にすすめる最上の機とされている。
このことは、御遺訓の中に、
念仏を信ぜん人は、たとえ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。
とお訓し下さった通りである。
しかし、いかがでしょう、初めてこの『一枚起請文』を目にした時、「なるほど、これはまさしく私の事、我が身のことを言って下さった言葉である」と、即座に受け取ることができただろうか。
世はまさに情報化社会、「I・T」の時代であり、教育も進み、沢山の字は読みもすれば書きもする、一文不知と言われる私ではない、愚鈍と呼ばれる私ではない、と反発したい思いが頭をもたげてくるのを否めない。
嵯峨天龍寺の桂州禅師に、
誰かいう一枚の紙、なかにふくむ大蔵経、天外に出頭する者
はじめて知らん、この語のかんばしきを
とまでの絶讃の言葉を送らさせた名文、まさに経典同格のお言葉を、浅学不徳の身では、正しく受け取ることが難しいのである。
私共は、たしかに「賢くなりたい!」「立派な人間になりたい!」という願いは持っている。だからそれなりに勉強もする。修養の機会があればその場にも臨む。では、勉強すれば賢くなるのか、修養すればきれいな心になるのか?。必ずしもそうではない。
ソクラテスは、生涯勉強して、自分の無知を知ったと言う。宮本武蔵は「剣は磨けば光る。しかし人間は磨けば磨くほど、汚なさが見えてくる」とも言っている。
実るほど 頭を下ぐる稲穂かな
下るほど 人は見上ぐる藤の花
そのことを法然上人は「念仏を信ぜん人は……ただ一向に念仏すべし」とお示しになっている。
念仏を信ぜん人は(「念仏を信じない人」と受け取る人があるが、それは間違い)、お念仏を申して、阿弥陀様のお救いにあずかり、お浄土に迎えとられると深く信じお念仏申す人は、ということ。たとえお釈迦様一代の教法を、隅から隅まで勉強し尽くしたような人であっても、一文不知の愚かものの境界におきなして、智者のふるまいをせず、すなおに本願他力にうちまかす身の上となって、お念仏申して行きなさい。これこそ浄土宗にすすむる最上の機、「愚鈍念仏往生の機」と示され、「浄土宗は、有智・無智みなこの機にならい収むるを至要とす」との尊き教えである。
私たち人間は、お互人間を相手として自分を知ろうとしている。「あの人にはとてもかなわないが、この人よりは自分がまだ勝れている」と、高い慢の鼻を高して安心している。
人間お互いも、人格の尊厳において変るものはないが、身長も、体重も同じではない。数学の得意な人もあり、体育の上手な人もある。人間の目で見る限りけっして同じではない。
また、この地球、高い山があり、深い海がある。地球の表面で見ていると、まさにデコボコの地球である。しかしその地球を、宇宙へ飛び出した飛行士は、どう見たか?。デコボコの地球を、美しいまん丸い球体とながめた。
そのように、人間の目にはデコボコに見えるお互いであっても、阿弥陀様の目に見られた私達人間は、総理大臣であろうが大統領であろうが、強かろうが弱かろうが、仏の目には、おしなべて凡夫のみ。
たとえ一代の法を学すとも、仏の前には凡夫に過ぎない。また一代の法を学び尽くせない凡夫の性に思いを致し、愚鈍の身になしてとのお導きを尊く頂きたい。
浄土門の修行は愚痴に還りて極楽に生まる
愚痴に還って「愚かな我が身であった」と受け取り「仏様どうぞ!」とまかせる身の上を初重の機と伝え、「いかなる愚かなものにても」とお受け取り頂くのである。
(平成13年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「機」より)