「機」を捉える視点
初重伝書である伝法然上人撰『往生記』に説かれる「機」の淵源を辿れば、善導大師の『観経疏』散善義深心釈中、次の信機を明かした一節に帰結し、同時にそれは、それに続く信法と表裏一体となって構成されるものであろう。
深心とは、深く信じる心である。それに二種がある。
第一に、わが身は、現に罪深く迷いの世界に留まり続ける凡夫であって、はてしない過去から今に至るまで、つねに輪廻の世界に落ち込み経巡って、そこから離れ出る縁などない、としっかりと深く自省するのである。
第二に、阿弥陀仏が四十八の本願力によって、われわれ衆生をお救い下さることに対して、疑いやためらいの心なく、本願力に乗じて、必ず往生が叶うとしっかりと深く信じるのである。
また、釈尊が『観無量寿経』において、三福や九品などの散乱した心のままでも修めることのできる行(散善)や、十三観などの心を静めて修める行(定善)を説いて、阿弥陀仏と極楽浄土(依正二報)を称賛され、人々にそれを求め慕わせようとなされたことをしっかりと深く信じるのである。
また、『阿弥陀経』において、あらゆる世界の数多くの諸仏が、すべての凡夫が念仏により必ず往生することが叶うと証明しお勧めになられていることをしっかりと深く信じるのである。(筆者試訳(2))
このように大師は「煩悩具足、罪悪生死の自己の姿を自省する」という信機と「お念仏を称えれば阿弥陀さまの本願力に乗じて必ず往生が叶うことを信じる」という信法の二方面から深心をお示し下された。この信法について法然上人は、次のようにお示しになっている。
のちの信心について二つの心あり。すなはちほとけについてふかく信じ、経についてふかく信ずべきむねを釈し給へるにやと心えらるゝ也。まづほとけについて信ずといは一には弥陀の本願を信じ、二には釈迦の所説を信じ、三には十方恒沙の護念を信ずべき也。経について信ずといは、一には無量寿経を信じ、二には観経を信じ、三には阿弥陀経を信ずる也。すなはちはじめに決定してふかく阿弥陀仏の四十八願といへる文は、弥陀を信じ、又無量寿経を信ずる也。つぎに又決定してふかく釈迦仏の観経といへる文は、釈迦を信じ、観経を信ずるなり。つぎに決定してふかく弥陀経の中といへる文は、十方諸仏を信じ、又阿弥陀経を信ずる也(3)。
ここにあるように、信ずべき法とは、仏説(三仏同心)としての「浄土三部経」(広くは弥陀化身たる善導大師の釈書も含めて)に他ならない。
そして、以上のような信機・信法の具え方の次第について、法然上人は次のようにお示しになっている。
はじめにはわが身の程を信じ、のちには仏の願を信ずる也。ただしのちの信を決定せんがために、はじめの信心をばあぐる也(4)。
このように法然上人は、信機から信法への流れを示されている。すなわち、信仰を具えるには順序があり、信仰の対象(阿弥陀仏の本願力による救い)を信じられるようになる(信法)ためには、まずもって自分自身のありのままの姿を見つめなければならない(信機)とおっしゃっているのである。
さて、ここで問題となるのが法然上人ご在世時と現代とのあまりにもかけ離れた信仰状況の相違である。すなわち、法然上人のこのご法語は次のような前提の中で示されたものである。
わがごときのともがらの、一念十念にてはよもあらじとぞおぼへまじ。しかるを善導和尚、未来の衆生の、このうたがひをのこさん事をかがみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき、いまだ煩悩をも断ぜず、罪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、一声にいたるまで決定して往生するむねを釈し給へり(5)。
つまり、先のご法語の意図は「こんな私では救われない」と自己を卑下して、阿弥陀さまの本願力による救いを願わなくなってしまうことを恐れてのものなのである。こうした法然上人の危惧は、例えば次の『一紙小消息』冒頭の四種の疑義への解答をはじめ各所に見出すことができる。
行少なしとても疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず、罪根深きをも嫌わじと宣えり。時下れりとても疑うべからず、法滅以後の衆生なおもて往生すべし、いわんや近来をや。我が身悪しとても疑うべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりと宣えり(6)。
このような「行少なし」「罪人」「時下れり」「我が身悪し」などといった、当時の多くの人々が抱いていたであろう信仰状況に対して、法然上人は、阿弥陀さまの本願力による救いは広大であり、一切衆生に及ぶことを力説されたのである。言ってみればそれは、「阿弥陀さまがいらっしゃり、お浄土が実在する」ということを前提にした上での安心の疑心・起行の疑心に対する戒めであったと言えるであろう。
現代では、こうした法然上人の危惧はある意味でなかば杞憂となっているかのようにも思われる。しかし、その一方で新たな疑心が鎌首をもたげていることも事実である。すなわち、科学的合理主義こそ絶対であると疑わずに「阿弥陀仏なんているはずがない!」「極楽浄土なんてあるわけがない!」「念仏なんかにたいした功徳はない!」などと主張する慢心の台頭である。
科学文明・物質文明の恩恵を享受し(そのこと自体は先人の労苦に心から感謝申し上げなければならないであろう)、頭でっかちになり過ぎた現代人にとっては、あたかも法然上人当時の聖道門の僧たちがそうであったように、自己の力を過信し、かえって酬因感果身(報身)としての阿弥陀さまや指方立相(報土)としてのお浄土の実在を疑い、素直にそれが信じられなくなっている信仰状況が広がっているのである。それは取りも直さず、先に述べた信法の基盤たる仏説としての「浄土三部経」の所説そのものへの疑心に他ならない。ある意味でこうした信仰状況の広まりは、法然上人ご在世時よりも深刻な事態なのかもしれない。
けれども、私たち煩悩具足の凡夫を真に救い得る教えは、法然上人がお示しになられた報身としての阿弥陀さま、報土としてのお浄土を置いて他には存在しない。だからこそ、私たち浄土宗僧侶は、こうした現代の表面的な風潮や聖道門や真宗の机上の教えに流されず、法然上人のみ教えの正しいお取り次ぎに邁進していかねばならない。そして、そうした私たちの真摯な姿勢こそ、迷走する現代社会に最も必要であり、善導大師や法然上人はじめ浄土宗列祖にもっともお慶びいただける「弥陀如来の御みやづかえ(阿弥陀さまへの宮仕え(7))」であると言えるのである。
もちろん、こうした現代人の慢心に対する処方も、やはり信機から信法への流れをお示しになられた法然上人の先のお言葉に帰結するであろう。なるほど、法然上人ご在世時と現代とでは信機へ導く道程こそ異なるものの、信機から信法へという方向性自体は、なんら異なるものではないからである。まずもってありのままの人間の愚かさ、現実の私の弱さをしっかりと聴衆に自覚していただけるように伝えたいところである。それこそ法然上人が、偏依され弥陀化身と仰がれた善導大師でさえ「自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりと宣えり(かの善導大師でさえ『自分こそ煩悩にまみれた愚かな人間である』とおっしゃっているのです)」と示されているのであるから、そうでない方など決している筈もなく、私たち浄土宗僧侶は確信をもってお取り次ぎする姿勢がなにより大切なのである。なぜなら、そうした信機の自覚を心の内に抱けなければ、頭でっかちになった現代人・都会人・若者に対して、いくら阿弥陀さまやお浄土・お念仏のことをあれこれと説き重ねて伝えようとしても、それらを彼らに心底から受け止めさせることは難しいからである。
(平成13年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「機」より)