教諭を拝して
来るべき法然上人八百年遠忌を望んでの本年度教諭と拝する。大きく分けると四つのことが示されている。第一は法然上人とそのお言葉を指針とすべきこと、第二は天地の大生命ともいうべき本願による往生、第三は自我妄執への反省、第四は還愚で結ばれてある。
第一には、大遠忌は単なる上人の追善行事ではなく、「法然上人」と、その「お言葉」を再認識し、我らの行動目標に掲げ指針とすべきことが言われている。
「法然上人」についても先年、「平成法然上人絵伝」の画像、さらに、それに対応した『布教教化指針』も刊行されたが、さらなる、法然上人の、今に、未来に向けての積極的な宣揚が期待されている。なお『布教教化指針』の頭書きに、平成「 」年度とあったために、当該年度限りという理解もあったようであるが、それぞれの年度の出版ということで、内容は、恒常である。連年特集の『布教教化指針』の『選択本願念仏集』も将来まとめて出版されるようで、机辺に備えられることを期待したい。つねに我々の基本として省みるものであり、さらに、多くの人に伝えることが使命である。その名前と共に、教えを能所化共々に消化吸収を絶えず心がけたい。
反省として、我々は、法然上人の「お言葉」を念頭に置きながら、特に、浄土宗教化の現場で、信仰に関する言葉、用語を、分かりやすく伝道しているだろうか、と思う。最も基礎の術語、常識としての信心の用語は、信徒の心に受けとめて欲しいからである。それがまた、浄土宗信仰の筋になっていく。例えば、『一枚起請文』は要と言われるが、中の簡単な言葉でさえ、どれほどの信徒が理解しているであろうか、と危惧するのである。
なお『選択本願念仏集』の内容の図式は、第四の「愚痴に還り浄土に生まる」に関連して考えると、次のようである。
『選択本願念仏集』
第三章 念仏往生本願篇
『選択集』引文『無量寿経』上云、設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念 若不生者 不取正覚
『観無量寿経』の愚人往生に対応して、ここに続く愚人を除くという意味の「唯除五逆誹謗正法」の経文は削除)
第八章 三心篇
私釈段「…外(相)は智にして内(心)は愚なり。…」
第十章 化仏讃歎篇 (下品―愚こそ本願の対象)
『選択集』引文『観無量寿経』「下品上生者、或有衆生
作衆悪業 如此愚人多造衆悪…命欲終時、…合掌叉手
称南無阿弥陀仏 則得往生。」
(『選択集』引文せず『観無量寿経』「下品下生者、或有衆生 作不善業五逆十悪 如此愚人…令声不絶十念称南無阿弥陀仏 ……則得往生」)
『選択本願念仏集』は浄土三部経の主意をまとめつつ集約されている。しかし、根幹は『観無量寿経』、特に、上記のように第十章に引用されている衆生作衆悪業…如此愚人という愚人が本願念仏の対象であるから、この立場では、当然、第三章の『無量寿経』の引文には、その後に続く愚と言うべき五逆誹謗正法の愚人を除外するという「唯除五逆誹謗正法」はカットされる、のである。この図の矢印は『観無量寿経』の愚の方向で『無量寿経』を見直す、という意味である。
かくて浄土三部経は等価値といいながらも、『観無量寿経』の下品の愚を往生の本命とし、『無量寿経』も見られて、三経の対象は愚人であるとまとめられたのである。即ち、機の深信が土台となっている。
第二は、法然上人は、阿弥陀仏の本願による万人の浄土往生の道を開かれた。それは、天地の大生命に生き生かされていることをよく自覚しない我らへの光明である。我らに賜った暗夜の光明と表現されたが、その教えを認識し信仰する事は、教諭の後の文言に関連して言うならば、法の深信である。
第三は、自我に妄執することへの直視と反省である。さりながら、いくら人智が発達し、宇宙を駆けめぐるとも、自我に妄執する人、それ自体は変わらぬこと、妄執への反省である。昨今は、古きよき時代は影を潜め、想像もできないような醜悪な現象が、次々と露呈されていく。人は、詐欺、窃盗、殺傷の記事のある社会面を見て眉をひそめて世相を嘆く。しかし、それは、人ごとではなく、我が心の、煩悩の拡幅された姿でもある。しかも、新聞種に事欠かぬように果てしもない。
第四は以上を踏まえて、還愚の法然上人の御心を体し念仏せよ、との事である。思うに現下の社会・人心には、自己反省の構えが薄れているのではないか。たとえ明らかに過失を犯してさえも、駆け引きとしても、まず、自分の方に過失なしと言い張る情勢が多く、社会も、また、その風潮にある。かつて、『朝日新聞』の「人生勉強」という連載漫画に、只野凡児という主人公があったが、その時代は凡児、凡夫という意味も世に理解されたからであろう。現代は自己主張に忙しく、凡夫も不毛のような気がする。ボンブとワープロキイを叩いても凡夫とは出ない。
だからこそ、今、「愚痴に還る」ということは、鮮烈な反省を人心にもたらす。我が身の愚痴、至らなさを、痛烈に省みる、ということである。機の深信である。
御法語の愚痴を次に三カ所掲げる。読みは一般的表示である。
『一枚起請文』「たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」(『昭法全』四一六)
『三心料簡および御法語』一、無智を本と為す事 「凡そ聖道門は智慧を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に還りて極楽に生る。所以は聖道門に趣くの時は智慧を瑩として禁戒を守り、心性を浄むるを以て宗と為す。然れども浄土門に入るの日は智慧を憑まず。戒行をも護らず、心器をも調えず、只々甲斐無し。無智者と成る者本願を憑み往生を願う也」(『昭法全』四五一)
『信空上人傳説の詞』「もし智慧をもて生死を離れるべくば、源空なんぞ聖道門をすてて、この浄土門におもむくべき。まさにしるべし。聖道門の修行は、智慧をきわめて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴に返りて極楽にむまると」(『昭法全』六七二)
さて、浄土宗の安心はこの還愚痴が一つの中軸をなしている。慎ましく自己を掘り下げ謙虚に念仏精進するものである。したがって、往生は願うが、成仏、即ち、自らが仏となるというおごり高きことは心にない。この点が、他宗と際だった特色がある。それは、この出発点が愚痴の反省であるからである。各宗はホームページで成仏の宗旨は明確に示している。
『選択本願念仏集』にも、衆生の成仏という単語は二カ所、それも、浄土に生まれれば即ち、やがて成仏するという表現でしかない。けだし浄土宗の宗旨は凡入報土であるとはよく内容を言い得た語である。愚痴の凡夫が往生させていただくのである。
(平成13年度 浄土宗布教羅針盤 勧誠編「機」より)