(2)対他宗的立場〜禅宗からの批判を中心に〜

 次に上人修学当時の禅宗からの批判について概観する。

 上人の出生した室町時代は、禅宗、特に五山十刹を項点とする臨済宗が隆盛の時代で、浄土宗の僧侶や伽藍は少なく、およそ独立教団としてのありさまではなかった。そればかりか禅僧による浄土宗批判が相次いだ。まず夢窓疎石は『夢中問答』巻下に、

  然れば他力本願をたのみて西方浄土を願ふべしといふ人あり。かやうの人は大乗の法門を学しながら、いまだ大乗の題目をだにしらざる人なり。悪趣の外に浄土をねがひ、自力他力をわかち、難行易行を論ずるは、皆是れ了義大乗の題目にあらず。〜中略〜 無明妄想にばかされて、大乗は難行なり他力をたのむべしといふ人をば、大乗を学したる人と申すべからず。しかるを我は大乗の法門を学得したれ共、これは難行なれば念仏の行を修すべしといへるは、誹謗大乗の人なり。大乗の法門をしらねば、ただ念仏の行を修すといはればさもありぬべし。〜中略〜 涅槃、宝積等の経にいはく、仏説の中に了義経と不了義経との二種あり。末代の衆生了義経の説に依りて、不了義の説に依るべからず。凡夫の外に仏あり、穢土の外に浄土ありと説けるは不了義の経なり。凡聖・浄穢皆差別なしと明せるは了義大乗の説なりと云々。此の文のごとくならば、浄土宗には穢土の外に浄土あり、凡夫の外に仏ありと立てられたり。了義大乗の説とは申すべからず。

               (岩波文庫『夢中問答』 一八二〜一八五頁)

と、自力他力・難行易行・仏凡夫・浄土穢土を分かつ浄土宗の教えを大乗の教えとはいえないと辛辣に批判した。また虎関師錬は『元亨釈書』巻二十七に、

  又浄土有り、成実有り、倶舎あり。この三を寓宗と為す。国の附庸に譬う。〜中略〜 浄土の一宗、或いは大或いは小、修する者によって然り。祖宗の定系無きが故なり。〜中略〜 崇奉を勤むと雖も皆旁に之を資す。是、附庸の謂なり。〜中略〜 源空継で之を助く。廣く四部に行わるると雖も、統系無し。故に今寓宗と為す。

               (『大日本仏教全書』一〇一巻四七〇頁)

と、浄土宗は師資相承の定系がないので成実宗や倶舎宗と共に寓宗であり、他宗の僧が傍らに修するに過ぎないので附庸宗であると誹謗した。

 もちろん「智慧第一」と讃えられた法然上人が、こうした禅僧による批判に対処し得ない浄土宗義を未構築のはずはない。法然上人は、

  問。釈迦一代の聖教を、みな浄土宗におさめ候か、又三部経にかぎり候か。

  答。八宗九宗、みないづれをもわが宗の中に一代をおさめて、聖道浄土の二門とはわかつ也。聖道門に大小権実あり、浄土門に十方あり西方あり、西方門に雑行あり正行あり、正行に助行あり正定業あり、かくして聖道はかたし、浄土はやすしと釈しいるる也。宗をたつるおもむきもしらぬものの、三部経にかぎるとはいふなり。

               (『東大寺十問答』『昭法全』六四三頁)

と、浄土宗の教義は釈尊一代の仏教を聖道浄土二門の中に摂め取っていると言明している。さらに、

  自他宗の学者、宗々所立の義を、各別にこころえずして、自宗の儀に違するをばみなひがごとと心えたるは、いはれなきことなり。宗々みなをのをのたつるところの法門、各別なるうへは、諸宗の法門一同なるべからず、みな自宗の儀に違すべき條は、勿論なりと。

               (『修学についての御物語』『昭法全』四八六頁)

と、あたかも夢窓や虎関の批判を先取りしているかのように、各宗派の教えはそれぞれ個別に体系づけられており他宗の教えが自宗の教えと異なっているからといってむやみに批判を加えるべきではないと述べている。

 ここで浄土宗からの主張の詮要を記せば、たとえ禅僧から「自力他力・難行易行・仏凡夫・浄土穢土を分かたずに仏や浄土を自己の心中に見いだすべきである」と主張されても、坐禅をはじめ聖道門所説の諸行を実践として修め得ても実存として修め得ない深い自己内省に根ざす浄土教者は、自己の心中に仏や浄土など見いだし得ず、必然的に「他力」に縋り「易行」を修め、身外に「弥陀」や「浄土」を求めざるを得ない。法然上人が偏依され阿弥陀仏の化身とまで仰がれた善導大師でさえも「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なりといへり(「自分こそ煩悩にまみれた愚かな人間である」とおっしゃっている)(『一紙小消息』『昭法全』四九九頁)」と主張される。つまり、すべての衆生が愚かな凡夫に他ならないことは法然上人にとって動かし難い真実なのである。それはすなわち、煩悩を断滅し得ない機辺の判断に基づく自力他力・難行易行という相対を超えた、本願を成就された阿弥陀仏(仏辺)から示された絶対的立場に他ならない。

 ところが法然上人の聖意を汲み得ない禅僧によるいわれなき批判が沸き起こったのもまた事実である。良暁上人の弟子澄円上人が『夢中松風論』十巻や『浄土十勝節箋論』などを記して禅僧の所説に反駁していたが、未だ一宗を挙げて行われたわけではなかった。このように当時の浄土宗は、他宗からその宗義を軽んじられ、一宗として認められる状況にはなかった。それは法然上人の教えが未整備であったわけではなく、何よりも独立宗派としての組織が未整備であったことに由縁するといえよう。

 宗戒両脈の相伝を終えた上人は、さらに天台・真言・倶舎・唯識・禅といった諸宗の学問をはじめ神道や和歌の道に至るまで修学し該博な学識を得るが、この遍歴は当時の浄土宗の置かれた厳しい状況を客観的に知る契機となったであろう。いずれにしても上人は、対他宗、特に禅宗に対抗する教義の再構築を迫られたのである。

(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)