(四)『選択集』と『授手印』の顕彰
下総国に入った上人は建長六年(一二五四)秋八月頃、香取郡干潟町鏑木にいた鏑木九郎胤定入道在阿の依頼によって『選択伝弘決疑鈔』を著わしている。良忠上人には『徹選択抄』『選択集略鈔』『選択疑問答』などいくつかの『選択集』に係わる著作が見られるのであるが、それ等の中でも本書は最初期の著作であって、名実ともに中心となるものである。法然上人の門下は四流とも五流ともいわれ、『選択集』の解釈においても異なる点が多いのである。そのため良忠上人は法然上人や聖光上人の教えを基準に異説を破して正しい念仏義を顕彰しようとして著されたのがこの『選択伝弘決疑鈔』であったのである。
本書の書名について良忠上人は「伝とは先師に伝うるなり。弘とは遺弟に弘むるなり、決疑とは仮りに賓主をたててほぼ疑関を解き、鈔とは衆文を抽んでてこれを筆点に題す」と記している。これによると、本書が相伝の書であることを主張していることは明らかであり、また本文中に「伝云」「先師云」と記しているのは聖光上人から相承した教義であることを示している。各章の初めに篇目をかかげ、広く経論釈疏を引用して文句を解釈し、とくに諸行の生不、願非願、第十八、十九、二十の三願について述べ、西山派の諸行不生義、九品寺流の諸行本願義などに対して、聖光上人から相承した念仏義の立場を明らかにしようとする意識が強くあらわれている。
このような意識を更に具体的に示しているのが正嘉元年(一二五七)に著はされた『決答授手印疑問鈔』である。
建長七年(一二五五)九月二十五日、周東の在阿は遠江国一宮領の蓮華寺にいた法然上人の直弟子である禅勝房に書面をつかはして自らの疑問を質している。在阿は、はじめ天台の僧であって天台の教学を学んでいたが、のち聖光上人の『末代念仏授手印』を読んで浄土門に帰依し、『念仏名義集』によって往生の旨をわきまえたという。しかし、或る僧から『観経疏』の講義を聞いた時聖光上人の教えと違うことに気付いた。そこで、どちらが正しい法然上人の教えであるのかを確認すべく、直接法然上人の教えを受けたといわれる禅勝房に手紙で教えを請うたのである。しかし、残念ながら禅勝房は学者ではなく、念仏行者であった為、在阿の疑問に十分答えられなかった。
在阿は自らの疑問をはっきりさせたいと思い、更に法然上人の門下を探し求めた所、相模国石川の里(神奈川県石川)に渋谷七郎入道道遍がいることを知った。早速訪問したいと思ったのであるが、在阿は結核をわずらっていたらしく直接教えを受けに行くことが出来ず、手紙によって質ねたこともあったらしいが、手紙では思うにまかせず、病いを押して石川の里まで行ったようである。このとき道遍は
法然上人について浄土の教えを聞いてから年久しくなった。もう四十年にもなる。上人が亡くなってからも、いろいろな人の話を聞く機会があったのであるが、一人として法然上人の教えを正しく承けついでいると思ったことはない。善慧上人(証空)も隆寛律師もそうである。九州の聖光上人は法然上人の教えを正しく伝えていると聞いている。
といわれた。聖光上人については在阿も既にその著『念仏名義集』を読んでいたので、それをもとに話した所、道遍はそれこそ法然上人の教えに一致するものだと言い、
聖光上人の門弟で敬蓮社という人がしばらく鎌倉に在住していたというが、それはあとで聞いたことで、会うことは出来なかった。ところが下総国には聖光房の教えをうけた然阿弥陀仏がいるということである。ぜひ会いたいと思うのだが老令の身で行くことが出来ない。
と残念そうに答えた。在阿は帰国後ただちに良忠上人の草庵をたずね、道遍の話をし、然阿上人が相伝している教えをぜひうかがいたいと言っていたと付け加えた。それは正嘉元年(一二五七)正月十七日良忠上人五十九歳の時であった。
そこで良忠上人は在阿がたずさえてきた疑問に対して正月十七日から二月七日までの間に書き記され、十八日に序文を添えて著されたのが『決答授手印疑問鈔』二巻である。
在阿が早速この書をもって再度石川禅門(道遍)を訪ねたところ、「この書に書かれていることは、法然上人の教えと異なる所はない。ただ序文の所に少し異なる箇処があるように思われる」といわれた。在阿からこのことを聞いた上人は、その後石川の禅門を訪ねて訂正したということである。
このようにして著された本書は法然上人の『選択集』から展開された浄土宗の念仏義、いわゆる宗義伝承の書として、今日五重相伝の第四重の書に用いられているのである。
(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)