宝治二年(一二四八)五十歳のとき良忠上人は上洛された。その時聖覚法印の妹浄意尼の招きによって『選択集』の講説をしている。浄意尼は貞応三年(一二二四)法然上人の十三回忌に報恩のため『浄土依憑経論』を書写し、また嵯峨の二尊院で兄の聖覚を招き開題供養を行なっているので、早くから浄土の教えに帰依していたものと思われる。聖覚は天台宗の僧で、京都の安居院に住し、説法僧として有名であり、法然上人にも帰依した人である。
京都では浄意尼の外にも嵯峨二尊院の正信房湛空や、その近くに住む念仏房、清水竹谷の乗願房宗源など、法然上人から直接教えを受けた門弟たちを次々訪ねている。この時浄意尼は「私は昔、兄の聖覚から法然上人の教えを聞いたことがある。今良忠上人のお話を聞いていると全く同じである。まさしく法然上人の正流を伝承された人であることが解った。この上は都に止まってその念仏の教えを弘めて欲しい」と言っている。
良忠上人を正流の人と認めたのは浄意尼ばかりではない。上人があるとき「京都には法然上人の門弟と名乗る人は多数おり、自分こそ正しく教えを受けついだ者だと言っている人の話を聞くと、その人の説く所は水と火のようにまちまちだということである。そなたは私の話を聞いてどう思われるか」と乗願房宗源に尋ねた所、宗源は「確かにお説の通りである。他の人が説く所は一つとして法然上人の教え通りとは思われない。ところが、そなたの説は聖光上人から伝えられただけあって法然上人の説と全く同じである」と答えられたのである。しかし、宗源、念仏房共にそれから三年後の建長三年(一二五一・宗源は七月、念仏房は十一月)に亡くなっているので、この頃既にかなりの老令だったのではないかと思われる。
この後間もなく信州善光寺へ向われ、此の地で善導の『観経疏』を講じたといわれる。建長元年(一二四九)五十一歳の頃信州の教化を終え、利根川に沿って関東に入り、上野、下野、下総、常陸、武蔵地方で教えを弘めたのであるが、その中心は下総であった。
(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)