信順の信仰―『歎異抄』

 一方、専修念仏は無知者に対する方便の教えであるという風評に対しては、親鸞の捨て身の信仰が伺える。当時、口さがない連中はこう言った。仏教は何百年もの間、南都北嶺で説かれてきた難しい教えである。それは〈ただ心をこめて念仏さえ申せば、極楽に生まれることができる〉というような簡単なものではない。それは無知者に対する方便に過ぎない、と。

 関東武者、熊谷直実、津戸三郎もそう言われた。これは手痛い噂であった。なぜなら、彼ら自身常にその疑念に苛(さいな)まれていたからである。自分のような無知な者が、念仏を申したからといって、本当に極楽に往生できるだろうかという疑心である。そこへこのような噂がたてば、信仰が揺らぐのも無埋はない。頼朝の妻政子が、この噂を聞いて、法然に問いただしている。これに対して法然は珍しく激しい調子で「仏の教えを聞こうともせずに、慢罵にひとしく非難する者は、長く三悪道に沈む」と答えている(「鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事」『法全』五二八)。

 これと同質の風評が、東国にいる親鸞の弟子たちの間にも起こった。いつの頃かはっきりしないが、〈専修念仏は方便で、本当はもっと奥深い教えがある〉という噂である。信者たちは動揺し、結果、唯円ら数人が京都を訪ね、親鸞に聞こうということになった。それが『歎異抄』第二章の話である。親鸞はその人たちを前にこう述べている。

  あなたがたが、十余か国の境を越えて、いのちがけで訪ねておいでになったお志は、ただひとえに極楽に往生する道を問い聞こうということであろう。親鸞が念仏以外に往生できる教えを知り、書物も知っているのであろうとお思いのようだが、それは大変な誤りである。もしそういう難しい教えを聞きたいのであれば、南都北嶺にも立派な学者が多くおられるから、その方々にお会いして、往生の要を詳しく聞かれたがよい。

  親鸞においては「ただ念仏して弥陀にたすけていただきなさい」と法然上人の教えを承って、信じているほかに別の子細はない。念仏が本当に極楽に往生できる原因になるのか、また地獄に堕ちる業になるのか、私は全然知らない。

  たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちても、少しも後梅はしない。そのわけは、念仏以外の行を励んでいたならば仏になれる者が、念仏を称えていたために地獄に堕ちたというのであれば、だまされたという後悔もあるであろうが、どのような修行も及びがたい者であるから、所詮地獄は私の定められた住まいなのである。

  阿弥陀仏の本願が本当であるならば、それを説かれた釈尊の説教が嘘であるわけがない。釈尊の説教が本当ならば、それを説かれた善導が嘘を言われるわけはない。善導の解釈が本当ならば、それを説かれた法然の仰せごとがどうして嘘であろうか。法然の仰せが本当であれば、それを承って申しているこの親鸞の言葉も事実ではないか。

  結局のところ、この愚かな私の信心とはこのようなものである。この上は、念仏を申して極楽ヘ往生することを信じなさろうと、お捨てになろうと、各々がたのご自由である(『親全』四―五)。

と。長い引用になったが、これは昔も今も変わらない知と信との問題がある。念仏以外に奥深い教えがあるのだろうと疑う心は、それ自体、専修念仏への信に欠けているからにほかならないが、それは裏に精緻な教学に対する憧憬が潜んでいるからである。知性に対する強い依憑である。法然が「一枚起請文」に、

  この外に奥ふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはずれ、本願にもれ候べし。

と起請したのも、この根強い疑心に対してであった。

 またここで親鸞が「念仏が極楽に往生できる原因になるか、地獄に堕ちる業になるか、私は全然知らない」と答えているのは、「念仏は往生の種になるか否か」という質問があったからであろう。そう質問する人の下心は、はっきり可能性があると分かれば念仏を申そうというのである。知的に了解してから申そうというのである。それでは救われないと親鸞は言っているのである。

 親鸞は八十六歳のとき、

  自然(じねん)というのは、自とはおのずからということであって、行者のはからいではない。然というのはしからしむという言葉であって、行者のはからいではない(中略)阿弥陀仏は私たちに、この自然の様を知らせようとなさって下さっているのである(『末灯鈔』『親全』三―七二)。

と述べている。阿弥陀仏は、私たちに浅はかな人知の計らいを捨て、おのずからなる運行に身を任せるのだ、と教えて下さろうとしたのだというのである。

 浅はかな人知で何が分かるというのか。自分の「来し方」さえ人知の計らいの通りになってきたことはないであろう。まして「行く末」などわかったものではない。すべて自然(じねん)にお任せすればよい。阿弥陀仏はそう教えて下さっているというのである。信順の信仰である。

 親鸞は東国の信者たちに、法然門下の人々の著述を読むことをしきりに勧め、また消息では「名号となえざらんは詮なく候」(『末灯鈔』七月十三日有阿弥陀仏宛)というように念仏を称えることを盛んに説いている。『口伝抄』では「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべし」と言い、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と黒谷の先徳(法然)から相承したと述べている(『親全』四―一一五以下)。それが親鸞の布教した教えである。これは今、真宗教学が説いていることと必ずしも同じとはいえない。教団形成のために真宗教学が成立したという事情も分からないことはないが、それならば親鸞その人の教えと、真宗教学の説くところとを弁別してかからなければ、学術的正確は期せないであろうし、親鸞の本当の姿も分からない。親鸞は弘長二年(一二六二)十一月二十八日、九十歳で入滅した。

引用文献略称

 『法全』―『昭和新修法然上人全集』

 『親全』―『定本親鸞聖人全集』

(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)