『選択集』の展開―『教行信証』
親鸞は越後に七年、常陸の下妻や稲田に二十年ほど滞在し、文暦(ぶんりゃく)元年(一二三四)頃京都に帰った。六十二歳頃である。帰京の理由は明らかではないが、『教行信証』の完成が一つの目的であったといえる。なぜその制作に、それほどの力を注ごうとしたか。それは全巻の「むすび」ともいえる「後序」から窺い知ることができる。
そこにはまず『選択集』の見写を許された喜びと、その恩に報いたいという思いが述べられている。それはとりもなおさず『教行信証』の制作は、明恵の『摧邪輪』などによって代表される『選択集』に対する非難に対し、教学の立場から浄土教の真義を宣揚し、『選択集』の真理を後代に伝えたいがためであったということが窺いとれる。概括にならないように、要約だが一部を引用したい。まず、
元久乙丑(げんきゅうきのとのうし)の歳(さい)、恩恕(おんじょ)を蒙(こうむ)りて選択を書しき。
とあることから始まり、続けて、
『選択本願念仏集』は九条兼実公の求めによって、撰集されたものである。浄土真実の教えの簡要と念仏の奥義とが、この中に収められている。これを拝見する人は容易にその教えが分かる。まことに世にまれな、すばらしい文章であり、この上もなく深い意味をもった宝典である。
長い年月にわたって法然上人の教えを戴いた人は千万にものぼるであろうが、この書物を拝見し、写すことができたものは極めて少ない。そうであるのに私はこの書物を書写し、画像を図画することができた。これはひとえに念仏を専修した徳であり、決定往生の証拠である。そこで嬉し涙を抑えてこの次第を書きしるす。
なんと慶(よろこ)ばしいことであろう。心を広大な本願の大地にたて、憶いを不可思議な真実の海にまかす。深く如来の慈悲を知り、師の教えの厚いご恩を仰ぐ。慶びはいよいよつのり、師のご恩に報いようとする孝心は日毎に重なっていく。
そこで浄土の教えの帰するところを抜き出し、要を拾い集めた。ただ仏恩の深いことを念じてのことで、世人の嘲りを受けても恥じるものではない。もしこの書を見聞きする人は、信順の心を因とし、ときに疑いそしる人があっても、そのことが縁となって、ともに本願の力によって信心を開き、安養の浄土に仏のさとりを開くであろう(後序・『親全』一―三八二)。
というのである。新興の浄土教が、当時の仏教界で公認の籍を取るためには、浄土教の教学の確立が必要であった。それには『選択集』を開顕することであり、そのために浄土教の詮要を選んで述べたというのである。浄土宗第二祖聖光が、浄土教を善導宗といい、『徹選択本願念仏集』を著したのも同じ意図である。
(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)