法然上人との邂逅―『恵信尼消息』
親鸞聖人(以下敬称略)は承安三年(一一七三)、日野有範(ありのり)の長子として生まれた。法然上人(以下敬称略)より四十歳年下である。養和元年(一一八一)九歳の時、慈円僧正の下で出家し、やがて比叡山横川(よかわ)に登った。横川では常行三昧堂の堂僧をつとめていたことが、後に親鸞の妻となった恵信尼の「消息」から窺い知ることができる(第三通裏・『親全』三―一八六)。
『恵信尼消息』は、大正十年(一九二一)十月、西本願寺の庫から発見されたもので、全部で十通にまとめられ、親鸞の歩みを知る第一級史料となった。その第三通に、親鸞が法然にめぐりあったときのことが述べられている。これは京都にいる親鸞の娘覚信尼が、越後にいる母恵信尼に、父親鸞が亡くなったことを知らせてきたのに対し、恵信が返信したものである。恵信はこの消息の初めに、往時の親鸞を回想してこう述べている。読みにくい点が多いが、要をとっていえば、
(親鸞は)比叡の山を出て、六角堂(ろっかくどう)に百日籠られ、後世(ごせ)のことを祈っておられたところ、九十五日目の明け方、聖徳太子の文を唱え終わったとき、(六角堂のご本尊である)観世音菩薩がお姿を現されて、お告げを下された。そこですぐに堂を出て、後世の助かる教えを説かれている法然上人を訪ねられた。
それから百か日、降っても照っても上人をお訪ねした。上人はひたすら、善人も悪人も同じように救われていくとお説きになられた。それを承って心がきまりました。それで「法然上人が行かれるところはどこへでも、たとえ他人から悪道に堕ちるぞと言われても、私は世々生々(せせしょうじょう)迷いに迷った後に、この教えに会うことができたのですから(どこへでも従ってまいります)」と答えておられました(『親全』三―一八七)。
ということである。
親鸞は叡山であきたらないものを感じていたのであろう。たしかに天台の教学は大乗仏教最高の教学といわれ、空(くう)・仮(げ)・中(ちゅう)三観円融の観法も、四教円融の奥義も、一分の隙もなく構築されている。しかし教学がいかに精緻に組み立てられていようと、それが現実を遊離した観念論であれば、修行者にとっては画餅に等しい。
苦悩した親鸞は山を下りて、生涯の師となる法然にめぐり会い、そこで叡山では味わうことのできなかった感動に身のふるえる思いがし、生きる道が定まったというのである。後に親鸞は主著『教行信証』(後序)に、
愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)建仁辛酉(かのとのとり)の暦(れき)雑行(ぞうぎょう)をすてて本願に帰す(『親全』一―三八一)。
と記しているから、これが建仁元年(一二〇一)二十九歳のときのことであったことがわかる。
親鸞はこの感動を後に妻恵信に何度となく話したに違いない。この話は恵信尼の耳底に深くとどまり、親鸞が亡くなったと聞くとすぐに思い出され、娘覚信尼への消息となったものであろう。
親鸞が法然の許に入った頃は、法然教団の順風満帆の時であった。しかしその頃から旧仏教側の弾圧が日増しに強くなり、ついに建永の法難(一二〇七)となった。死罪四名、流罪八名という史上まれな弾圧であった。しかし法然はこれに抵抗しなかった。なぜならこれは浄土教の本質に対する処罰ではなく、信者の不行跡を取り上げた行政処分であったからである。こうして法然は土佐へ、親鸞は越後に流された。親鸞三十五歳のときであった。
しかし一方浄土教の本質に対しての非難もあった。それは一つは、浄土教そのものが浅薄、浅行であるという非難であり、もう一つは、浄土教は無知者に対する方便の教えに過ぎないという謗(そし)りであった。これらは本質に対する非難であるから、看過することはできない。法然教団は以後、これに対応することが大きな仕事となった。
親鸞もこれに携わり、前者に対しては『教行信証』で、後者に対しては『歎異抄』で応えたといえよう。その見地から以後の親鸞をみてみたい。
(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)