四、宗祖の伝記・遺教の結集

 醍醐三宝院に所蔵する所謂『醍醐本法然上人傳記』は、近世初頭三宝院門跡であった義演(一六二六没)が書写したもので、その原本は不明であるが、漢文体で書かれているので、恐らく鎌倉期の古鈔本であると推定される。そして、その巻頭に「法然上人傳記 (改行)附一期物語 見聞書(出)勢観房」とある。その内容は「一期物語」「禅勝房との問答」「三心料簡事」「別伝記」「御臨終日記」「三昧発得記」の六篇が収められている。撰者に関しては「見聞書勢観房」とある通り、勢観房源智というがその決定的な証拠となる史料を欠くので、従来より源智説は疑問視されてきた。ところが、玉桂寺蔵「阿弥陀如来立像」並に「胎内文書」の発見により、醍醐本『法然上人伝記』の撰者の源智説は有力になって来た。特に、胎内文書の『造立願文』中の一文に

 爰ニ我師上人ハ先ニ三僧祇ノ修行ヲ捨テ一仏乘之道教ニ入リ、後ニ聖道之教行ヲ改メテ偏ニ浄土之乗因ヲ専ニセラル

と源智は述べている。これに対して醍醐本の『御臨終日記』中には

 (建暦二年正月)三日戌時、上人語弟子云我本在天竺交声聞僧 常行頭陀 其後来本国 入天台宗 又勧念仏。

という一条の記事が見られる。これは宗祖入滅の少し前に「上人語弟子云」つまり随従給仕する弟子源智に宗祖は語らいて、「私はもともと天竺において声聞僧と交わり常に頭陀を行じていた。」と述べておられるのである。これに対応する文が先の願文の「先ニ三僧祇ノ修行ヲ捨テ一仏乗ノ道教ニ入リ云云」の文に相応するのである。それからもう一つの例として、

「弟子問云、可令往生極楽哉、答云、我本在極楽之身可然。」(醍醐本)の一文中の「弟子」とは、『九巻伝』に「我もと居なればさだめて極楽へ帰り行くべし、と仰られければ、勢観上人申さく先年も此仰侍」とあるように臨終の床に常侍していたのは源智であった。各種法然伝中、具体的に源智の名を挙げているのは『九巻伝』のみである。こうしたことから玉桂寺の『造立願文』は、醍醐本の『御臨終日記』の撰者を決定する上に有力な史料となったのである。(深貝慈孝「勢観房源智の著書についての一考察」(『三上人研究』所収)

 ともあれ、醍醐本は源智が宗祖に常侍した間に見聞した宗祖の行状や語録を書き留め秘めていたものを、源智の没後三年後の仁治二年(一二四一)頃に、源智の門弟たちの手によって抄記編纂したものと考えられる。そして、この編纂事業は宗祖遺教の第一結集としての意義をもつと評されている。従って醍醐本は、宗祖研究の根本資料としての意味をもち、傳統的な宗祖像や浄土宗の教学を考え直すに新しい資料と云わねばならない。例えば、近代になって、真宗本願寺が親鸞の語録として『歎異鈔』を重視するようになり、就中「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。云云」の段は、所謂親鸞の「悪人正機」を考える上に重要な一文で、この思想をもって、親鸞の教学は、師の法然の教えを更に押し進めた独創的なところに意義あるなどと、既でに高校の日本史教科書などにも述べており、それが一般化している。しかしこの一文が果して親鸞の独創的な見解であろうか。醍醐本『三心料簡事』の終段に

 一、善人尚以往生況悪人乎事口伝有之

  私云、弥陀本願ハ以自力ヲ可離生死ヲ有方便、善人ノ為ニをこし給ハス。哀ニテ極重悪人無他方便輩ヲをこし給へり

とある通り、宗祖は悪人のために弥陀本願の救済のあることを明らかにしているのである。従って、真宗の悪人正機説は、師の宗祖の教えの一部を主張しているに過ぎないことがわかるであろう。

(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)