二、念仏結縁交名運動

 勢観房源智上人(以下上人の敬称略)は、壽永二年(一一八三)に誕生した。父は平師盛と云われ、明けて寿永三年二月師盛は、一の谷の合戦で討死している。『玉桂寺文書』によると、母は、石清水八幡社の祠官紀氏の縁に連る秘妙という女性である。源智は十三歳にして宗祖の禅室に入り、一時慈鎮の下にあづけられてここで出家し、再び宗祖の元に帰参した。爾後十八年間、宗祖に常随給仕した最も宗祖に近侍した弟子であった。正治二年(一二〇〇)二月 源智十八歳の時、入門以来仏教の手ほどきは云うまでもなく、出家生活の指南をうけた兄弟子であり、また師範代であった真観房感西が亡くなりひとしお無常観を深めたものであった。感西は宗祖の『選択集』の撰述に当って筆受の役を担当し、また建久九年(一一九八)に宗祖が弟子たちに残された『没後起請文』には「感西大徳ハ亦是年来常随給仕之弟子也」と云い、「其ノ思ヒ相共ニシテ而不浅、爲ニ酬カ給仕之思ニ 又聊有リ所付属スル 謂ク吉水ノ中ノ房・高畠地一所付属之了ヌ。」とある。この時源智は十六歳であったので、勿論遺産分与にはあずかっていない。

 建暦二年正月二十三日、源智は宗祖の臨末に専修念仏の肝要を一紙にまとめた「一枚起請文」を遺誡として授けられ、浄土宗徒の末代の亀鑑として、今日まで尊ばれていることは周知の通りである。この時すでに源智は三十歳に達しており、常随給仕の弟子の中で最も信頼のおける人物であったろう。したがって、『四十八巻伝』に伝えるように、「道具・本尊・房舎・聖教」等の宗祖の遺産・遺物は恐らく宗祖の入滅とともに源智上人が相続したものと思われる。宗祖の入滅後一門の高弟法蓮房信空が中心となって葬儀・中陰の行事を世間の風儀に順じて執り行う旨を申し述べたところ、門弟子たちはこれに従い、源智も五七日の仏事の檀那となり導師は、長楽寺の隆寛が勤めたと伝えている。(『四十八巻伝』第三十九)

 さらに源智は、師恩に酬いるためにかねて結んでいた念仏結社の紫野門徒たちを動員して、三尺の阿弥陀仏の立像を造立し、京都は云うまでもなく、畿内全域、北陸・東海・山陽道に及ぶ広域に亘って、五万人に及ぶ道俗の交名を集めて念仏を結縁せしめ、これを当代一流の仏師たる春日仏師快慶一門の仏師に刻ませた阿弥陀仏立像の胎内に納め、且つ、建暦二年十二月二十四日の記年のある源智自筆署名の「像立願文」を草して、師恩に酬いるとともに、交名の衆生の極楽往生を願って、像内に封入したのであった。

 この事業は、師の一周忌を前にして、はやばやとした積極的な事業であって、『四十八巻伝』に伝えるような消極的な源智の姿はもはやみられない。そしてこの結縁交名の功徳は、「ひとしく私の発願の力によって必らず我が師の導びきを得て、浄土に生れ替わることができよう。更に結縁した人々は、生死の世界を超えて、速やかに弥陀の浄土に至るであろう。そしてその働きをもって師恩に報ずることになり実に莫大な作善であり功徳である。」と述べ、加えて、「若し結縁の衆の中の誰れか一人が先に浄土に往生したならば、ただちに人界にたち還りて残っている人びとを浄土へ引き入れるべく、また若し私が先に極楽に往生したならば、速やかに現世の生死の世界に帰って、残っている人びとを浄土へ導びきたい。念仏の縁によって結ばれたその緑は、網の目の如く洩らさず済われ、私の願をもって、人びとの苦悩を導びき、人びとの力によって私の苦悩を技き、倶に五悪趣の世界から離れて、九品の蓮に生れよう。」と願文は結んでいる。この願文を読んで、私達は直ちに思いおこすのが、善導大師の『発願文』である。すなわち、「聖衆現前したまえ、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ。彼の国に到りおわって六神道を得て十方界にかえって、苦の衆生を救摂せん。」と云う文である。往相還相の自利利他相互に回向しあう念仏の世界が展開されるのである。

 この結緑交名には「平季村等百万遍人衆」、「四十八人念仏衆交名」、『一万遍念仏人士」、「越中百万遍勤修人名」、「百萬遍念仏衆注進帳」などと見られるように百万遍念仏の結緑交名が多く見られる。百万遍と云うと、私どもが直ちに思い浮かべる大本山百万遍知恩寺は源智上人と縁(ゆか)りの深い加茂の河原屋、つまり功徳院の後身であり、宗祖の遺跡である。功徳院は加茂社の神宮寺であったようで河原屋と云うのは、瓦家を指し神道家の隠語で仏寺を云うのである。源智はこれを拠点として念仏活動を展開していたのである。即ち洛北紫野一円に勢力をもつ結社を結んだので、一般に紫野門徒と呼んだ。この時代、「門徒」と称する念仏結社が、都の近郊にみられた。信空の白河門徒、堪空の嵯峨門徒・親鸞の大谷門徒などを挙げることができる。いずれも洛外の東山・北山・西山の畔りに播居して、念仏の結社を結び活動を展開していた。そうしてこれらの地は殆ど山腹にあって墓所(ムショ)の営まれた所で、今日においてもなおその色彩は強く残っており、有名な無常所として知られている場所である。こうしたところに結ぶ念仏者たちの組織を挙げて念仏結縁運動に力を注いだものと思われる。時あたかも京畿及びその周辺地域は農業先進地帯として生産性も高く、荘園が徐々に解体に向かい、自立した中小の名主たちによる新しい村落が出現しつつあった。このような新しい社会組織の中に喰い込んだ念仏運動は新しい村落社会の形成の波に乗って、急速な普及を遂げたのが、これらの一連の念仏交名運動であったと考えてよいであろう。

(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)