第二節 聖光浄土教の特徴
聖光上人は法然上人に出会う前に天台僧宝地房證真について天台宗を学んでいる。すなわち、二十二歳から二十九歳までの七年間である。證真は法然上人とほぼ同時代に活躍した天台宗の学僧で、おそらく法然上人とは互いに知りあっていたと思われる。證真の天台学は中古天台の観心主義を批判し、徹底した文献による教相主義の立場に立っている。上人の浄土教学はこの證真の天台学を浄土教的に換骨奪胎したものということができる。上人は二十歳代に證真について聖道門の浄仏国土成就衆生の教えを学び、三十六歳から四十三歳にかけて法然上人から浄土門の選択本願念仏の教えを学んだ。この證真・法然二師からの相伝にもとづいて、浄土門の立場から聖道門・浄土門の二教を融合させることが上人の教学的立場である。これを聖浄兼学という。故に上人は「単聖道門、単浄土門の人はこれを知るべからず。聖道浄土兼学の人これを知る」と述べている。したがって、上人の独創的な念仏論、総別念仏論はこの二師の相伝・聖浄兼学の思想から展開したものである。そこで聖光浄土教の特徴について五項目に分けて述べてみたい。
第一は上人の一代仏教観についてである。
聖光上人は法然上人の『選択集』第一章聖道浄土二門篇を承けて、独自の聖浄二門観を展開している。すなわち、釈尊の一代仏教を聖道門と浄土門に分類することは法然上人と同じであるが、浄土門について法然上人は正明往生浄土教(三経一論)と傍明往生浄土教(四経四論)とに分類するのに対して、上人は西方浄土門(三経一論)と十方浄土門(十方随願往生経、十住毘婆沙論易行品)とに分類し、浄土門の本質を追及している。法然上人は聖道門を一向に廃捨しているが、上人は「聖道の機熟すれば、先ず聖道門を説く」といい、聖道門の役割を評価する聖浄各立の思想を述べている。例えば、弥陀の別願を超世の願と呼称する理由は、弥陀の別願が他の諸仏の別願に対して勝れているからではなくて、弥陀の別願が縁熟の機に相応するからであるという。このように上人は初めに聖道門と浄土門との共通性を強調しつつも、その上に立って、機根の立場から浄土門の優越性を説く。すなわち、今日聖道門とは名称のみで、真実の行人は一人もいないのであるから、我々凡夫にとって聖道門の教えは存在しないのと同じである、という。末法の、罪悪生死の凡夫にとっては、浄土門の教えこそ釈尊出世の本懐であり、真実の頓教一乗の教えであるといわねばならない。
したがって、上人の釈尊一代仏教に対する見方には聖浄各立の思想と聖浄廃立の思想との両面があるといえよう。
第二は上人の三心の解釈についてである。上人の三心観は三心ともに衆生がおこす心であるという点で一貫しており、その解釈は善導の三心釈のもとの意味にきわめて忠実である。他の門流のように強引で、無理な解釈を展開させてはいない。
まず至誠心について上人は善導の原意に忠実に「(衆生が)誠の心を至す」と訓んでいる。西山派では全く独創的に「至れる誠の心」と訓んでいるのとは対照的である。あくまでも衆生がおこす誠の心である。したがって、衆生は一向に、多くの虚仮誑惑の心をおこさないように、真実心を目標として精進しなければならない。しかも、内心と外相とが一致相応して、ともに真実でなければならない(至誠心についての十二句の四句分別)。しかるに、貧瞋具足の凡夫にこのようなきびしい真実心を内に具足することがはたしてできるであろうか。この問いに対して上人はただ往生の想いをなして念仏を実践する中に自(おのずか)ら凡夫にも真実心を具足できると答えている。また三心を能化の三心と所化の三心とに分け、衆生の至誠心が仏の至誠心と相応することによって衆生の往生が可能となると述べている。
次に深心について上人は信機信法の両方に対して疑心なき心であるとして、その疑心を安心の疑心と起行の疑心とに分けている。すなわち、安心の疑心とは念仏してはたして往生を得るや否やを疑うことであり、起行の疑心とは念仏は間違いなく決定往生の実践行であると信じた上で、我が身をかえりみてはたして自分は往生できるであろかと疑うことである。このうち、前者の安心の疑心は往生できないが、後者の起行の疑心は念仏を廃捨しないかぎりにおいて往生できるとする。
一方、多念義の隆寛も疑心願生者は極楽の辺地に往生できるとしており、両者は往生するところに違いはあるものの、ともに疑心往生説に関説しているといえよう。
さらに廻向発願心については法然上人門下の解釈はさまざまである。西山義では自力から他力へと心を廻すことであるとし、真宗義では如来からの他力廻向の意味であるとする。これに対して上人は衆生が自ら修した正助二行を極楽に廻し向けて、決定往生心を発することであるという。
第三は上人は念仏を大乗仏教の浄仏国土思想の中に位置づけている。上人は龍樹の『大智度論』に展開されている菩薩の修行相の中に称名念仏の深義を見い出し、不離仏値遇仏こそ至極甚深の念仏三昧であるとする。すなわち、菩薩が浄仏国土成就衆生の修行中において、下位の菩薩は必ず上位の如来と離れず、値遇して教導を受け、仏道を成就する。それはたとえて言えば、赤子が母親のもとを離れないで育っていくのと同じである。
一方、称名念仏において仏と念仏者との間に滅罪・見仏・護念・摂生・証生等の五種の増上縁、および親縁・近縁・増上縁等の三縁の念仏利益があるが、これも先の不離仏値遇仏の義に相当する。したがって、『大智度論』に説く菩薩の浄仏国土成就衆生の修行相と称名念仏とはともに不離仏値遇仏の念仏三昧である。上人は前者を総の念仏、後者を別の念仏と名づけている。上人が三福六度に通ずる、総の念仏を創唱する意図は別の念仏、すなわち、称名念仏の普遍性を論証しようとしたためと思われる。
第四に上人は南都北嶺の旧仏教側の念仏浅行説に対して総別念仏論を展開し、称名念仏の深勝性を強調している。すなわち、前述の不離仏値遇仏の念仏論によれば、菩薩は仏と離れず、仏に値遇することによって浄仏国土成就衆生の行を知り、その誓願を成就することができる。その菩薩の浄仏国土の行、つまり、あらゆる六度万行が悉く甚深の総の念仏となる。しかるに、浄土門の弥陀の四十八願は法蔵菩薩がこの浄仏国土成就衆生の行を因位の中において修した時に発した本願である。したがって、別の念仏、すなわち、本願称名の念仏は法蔵菩薩が因位の中にあって発願し、浄仏国土成就衆生の行を修して得られた教えであって、大菩薩の秘術であり、仏世尊の極智とも称すべきものである。
第五に上人は行としての念仏を懈怠なく策励する方法として四修と三種行儀を重視している。まず四修とは念仏を策励する時の修行の相貌であって、恭敬修・無余修・無間修・長時修の四つである。この四修すべてをあらゆる凡夫が具足すべきか否かについて、門下では異説があるが、聖光はどのような下根の凡夫であっても専ら称名を相続するうちに四修を具足することができるとしている。
次に三種行儀とは四修よりもより具体的に念仏策励の方法行儀を示したもので、尋常行儀・別時行儀・臨終行儀の三種である。法然上人門下では平生の念仏と別時の念仏、平生の念仏と臨終の念仏、それぞれについて異説があるが、上人は見仏を目的とする別時の念仏の必要性を説き、かつ臨終念仏による正念往生を勧説している。
(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)