この『布教・教化指針』は、「教諭」の精神に則り、本宗の全寺院住職はいうまでもなく、直接、布教・教化に従事される教師に、教化宗団としての本宗の布教・教化の基本方針を示すものである。
本年「教諭」は、平成十年の『選択本願念仏集』法然上人撰述八百年から、さらに、その展開を、世界を視野に入れながら、来るべき上人八百年遠忌を踏まえて、念仏門の弘通に努力せよと説かれてある。
法然上人は『選択本願念仏集』を著わされたし、また、それをご自身の行動の上に体現された。その展開が、二祖、三祖、列祖と進展し、特に、七祖に到っては、五重の教化が組織化し、今に至るまで、地についた力づよい家族ぐるみ、地域ぐるみの弘通となって、力強い教田が開かれていったのである。
どちらかというと浄土宗では、あまり、教理の方のことは、ただ一向に念仏すべし、の声に押されて二の次になりがちである。しかし、これからの時代は情報の時代、情報開示の時代である。例えば、念仏信仰の要といわれる一枚起請文の中の、二尊、三心、四修という言葉ですら意味の分からない信者は少なくないと思われる。日常に使われる言葉から確認して足下をしっかりしなくてはならないと思われる。五重は老若男女様々な人々が一堂に会するのであるから、伝達には難しい問題もあるが、念仏弘通について、よい意味でのこだわりは必要である。
五重については、将来改めて、検討し、改善工夫すべき点があれば研究をお願いしたいという声もある。
さて、今やグローバル時代に入り、とあるが、日本だけで、事はすまなくなってきている。今やインターネットの名のとおり、電子情報は世界を四六時中、駆けめぐっている。その主要な言語は英語である。先般首相も早期の英語教育を提案した。スイスは英語・独語・仏語が公用であり、ドイツ国は独語と並んで英語が使われている。他の国も似たような状況である。ヨーロッパの観光ガイドが一人で英・独・仏語を鮮やかに使いこなすのは珍しい事ではない。島国の日本と事情が違うといっても、もはや、世界の日本である。世界の中に通用する言葉や考え方をともなわなければならない。
浄土宗も先年、長らくの苦心、研究の結果を踏まえて、英訳『選択本願念仏集』が完成したことは、英訳『法然』以来、長い空白時代であったが、待望の快挙であった。しかし、その他の分野では、今後多くのことが期待されている。その意味で、北米開教区等は貴重な英語圏の橋頭堡である。
今、浄土宗門学校長会の英語教科書の編纂も数年来進んでいる。そのうちに、英語の浄土宗辞典も結果として出てくるであろうし、次々と、グローバルへの道を歩むことになろう。Eメールも英訳がないとグローバルとはならない。また、校長会では、英語で法然上人とその教えを学ぶことで、かえって法然上人を理解し、なじむことになるのではないかという教育的効果を期待している。
「教諭」では、世界の諸宗教の対話と交流が祈られたとあるが、我々はあまりにも諸外国の宗教、なじんでいるキリスト教でさえも、知らぬ事は多く、また、知ろうともしないことが多い。しかし、明治以来、先覚者たちは、キリスト教を学び、外国に学び、よきところを参照しつつ近代教化に努力してきた。
古い話を今持ち出すのもおかしいかも知れないが、実は、そのような近代布教の方向も逆に今では実行され難くなって来ている。仏教音楽協会という団体、一流の音楽家による仏教聖歌の制作、仏教交響曲の作成等々と華々しく仏教音楽の近代化は花開いたのである。各寺院にはキリスト教のかたちに学んで、日曜学校が誕生し、本堂からはオルガンにあわせて、仏教の児童唱歌が歌われていった。学芸会とか年度毎に皆精勤賞を出すなどの工夫がされた。そのころの歌は成人してもよく覚えられていた。逆に今はそのような寺院は忙しくなって教化どころではなくなり、また、進学競争で、児童は、余裕がなくなった。
往事を顧みて、新しい前進をできる事から少しずつでも行うべきである。小さな子供の参詣には声をかければ、かならず、和尚の優しい印象は残るであろうし、小話でも与えれば、また、眼が輝くであろう。多分、寺院々々で工夫はされていると思われる。それは、やがて念仏弘通に繋がる。
さて、「教諭」で「キリスト教等の諸宗教へ、『黄金の架け橋』を築け」とあるが、さしあたって身近なものは、キリスト教であろう。ある学者の説であるが、現在、日本と世界の関係は多くの面で考えられるが、日本は多神教で、他の諸外国は主として一神教であるから、多神教と一神教との関係とも言える、というのである。多神教というのは、日本の神道は八百万の神であり、その仏教は釈尊のみならず、阿弥陀仏、大日如来、等々、諸仏の信仰である。一神教はキリスト教のそれで分かるように、天地創造の唯一神しか認めない信仰である。更に言えば、G7(先進主要国)にしても仏教国は日本だけである。
このように見てくると、彼らの間に橋を架けるということは、相互の理解と親和がなくてはあり得ないのである。しかし、相互の理解は、相互にあまり進んでいないように思われる。彼の話はさておいて、仏教の側、我々は、キリスト教については、そのよき所、特に教化の面では、上述のように、先覚者たちに取り入れられてきた。しかし、仏教界、仏教系大学で、キリスト教の講座はなかったであろうし、僧侶でバイブルを読んで研究するものは、少数の宗教学者等にとどまった。
ボーイスカウトも、仏教で普及し、浄土宗等で行われているが、彼のそれは、神の御業を助けるサービス精神が大きな骨格であるのと、異なった仏教独自の菩薩精神といった理念の裏付けがなされねばならない。彼のそれをよく知って、我が仏教や浄土宗のあり方を考える事が大事である。
一度でもバイブルを開けば、なにか、得るところがある。例えば、開巻第一に天地創造の話で、日曜日の意味を見たり、神が自然を人間の為に創るのと、仏が自然に実相を観て仏教を開くのとの彼此の特色を見るべきである。世界のホテルの客室にバイブル(新訳が多い)とならんで、仏教伝道協会の努力になる仏教聖典が置かれている。
神の教えに随わない者は異教徒と断ぜられる。しかし、仏教信者の阿育王は、人はそれぞれ宗教があり、それぞれ崇拝されねばならない、という。仏教には寛容があるのと対照的である。随って神も仕事を「第七日(日曜)に休まれた。……聖別された」という日に於いても働くのと、働かざれば食うべからずの仏教とは、相容れないものがある。
このような事は一例であるが、知らないために誤解が生まれ、不信感が募ることにもなる。とにかく、相互の橋を架けるために理解を深め、齟齬を越えるグローバルな見地に立つことが、やがて、法然上人の教えが大きく伸び展開する事につながると思われる。
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誤植訂正 平成十年度『布教・教化指針』三〇頁表示中
「観經撮要」は「小經撮要」に訂正
(平成12年度 浄土宗布教・教化指針より)