一、ふるさとへ(極楽)
建暦元年(一二一一)十一月、勝尾寺に逗留していた法然上人は帰洛を許され、その月の二十日、五年ぶりに京都の地をふまれた。五年の歳月は決して短い月日ではなかった。上人のよき外護者であった兼実はすでにこの世を去っており、また主を失った旧居吉水の禅房も荒廃していた。幸い兼実の弟・慈円僧正の計らいで大谷の禅房に入ることができた。この禅房は現在の知恩院勢至堂の地にあたる。
門弟をはじめ帰依者たちのあたたかい出迎えに、再会のよろこびは一入深いものがあったことだろう。しかし、年が明けた建暦二年正月から上人は病床についた。恐らくご老齢と配流の疲労が重なったのであろう。また帰洛したという安堵感もあったのかも知れない。
正月二日から上人の日頃からの食欲不振が次第に高じてきたが、不思議なことに、ここ二、三年、耳や目がぼんやりしていたのが、にわかにはっきりとしてきた。昔のように門弟たちと、お念仏や往生のことを語り、みずから高声念仏を唱え、眠っているときでも口や舌を動かされた。このことによって看病の門弟たちは、往生の近いことを感じた。翌三日に一人の弟子が「このたびの往生は間違いないでしょうか」と尋ねると、上人は、
われもと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし
(巻三十七)
自分はもともと極楽浄土にいた身であるから、必ず本国に帰ってゆくであろう、と答えている。古来から「死を見ること帰するがごとし」という諺があるが、上人はまったくその通りで、生死の世界をのり越えていたのである。上人にとっては極楽は未知の地ではなく、かつて生活していた故郷であり、故郷に帰ることは自然なすがただったのである。往生は上人にとって、喜ぶべき待ちこがれていたところであったといえよう。
二、遺跡はいずこ
このような御容体のなかで、上人の高弟である法蓮房信空が、日頃聞いておきたいと思っていた遺跡のことを尋ねた。
昔の偉いお坊さんにはみなその遺跡がありますが、しかしお師匠さまには一生の内に未だ堂宇一つお建てになりませんでした。もし御往生になった後には、どこをご遺跡としたらよろしいでしょうか(巻三十七)
と問うたところ、上人は、
遺跡を一つのお寺や廟にきめてしまったならば、念仏の教えは弘くゆきわたらないことになってしまいます。私の遺跡は国中津々浦々どこにでもあるのです。何故ならば、念仏を弘めることは私が生涯を通して勧めてきたことです。ですから念仏の声するところは、身分の高い低いを問わず、海辺にある海人漁人の小屋にいたるまで、みな私の遺跡なのです。
と申された。
古来から偉大な高僧方は、たいてい立派なお寺を建てて、それを遺跡としている。真言宗の祖である空海(弘法大師)は高野山を入定の地として金剛峯寺を建て、天台宗の祖の最澄(伝教大師)は比叡山に延暦寺を聞いている。このように各宗の祖師方はそれぞれ寺院を建てて廟所を定めているが、上人は浄土宗の開祖であるにもかかわらず、生涯自ら寺院を建てようとは考えなかった。それは、ただ一廟だけを一堂だけをどれほど立派に残したとしても、そこだけ念仏の拠点となるだけで、弘く弘通することにはならない。上人が念仏を始められた御趣旨は、一部の者の宗教ではなく、あくまでも万人を救済しようとされたからである。いかなる金殿玉楼もいつの日か壊滅があるだろう。しかし無形にしてただ念仏の声するところは永久不滅の遺跡にちがいない。したがってこのお言葉は生涯一貫して念仏に徹し、念仏の宣揚に心血を注がれた上人の御信仰の真髄を拝する思いであり、まことに味わうべきお言葉である。
三、門弟たちへの最後のお言葉
また上人は臨終の近づく中で次のようなお言葉を残されている。
孝養のために、精舎建立のいとなみをなすことなかれ。心ざしあらば、をのをの群集せず、念仏して恩を報ずべし。もし群集あれば闘諍の因縁なり(巻三十九)
すなわち、追善供養のために寺を建ててはいけない、また仲間が集まれば争いもとになるから、群集することなく念仏をとなえ恩に報いなさいと諭されている。念仏はいつ、どこでも、一人でも二人でもとなえられるものであるから、寺も墓もいらないといわれているのである。このお言葉は、当時の仏教界とくに伽藍仏教への鋭い批判ともうけとれる。
さて、正月十一日の辰の刻(午前八時)ごろ上人は病床から起き上り、高声念仏をとなえた。枕辺にいてその声を聞いたものは、その尊さに感動して涙を流した。あまつさえ、上人はお弟子たちに向かって念仏をすすめたのである。
高声に念仏すべし、弥陀仏のきたり給へるなり。このみ名をとなふれば、一人として往生せずということなし
(巻三十七)
こうして上人がお念仏の功徳を讃嘆している様子は、元気な時と少しも変わりはなかったと伝記には伝えている。そして「一人として往生せずという事なし」とのお言葉は、念仏の衆生は必ずみな往生するのであるということを、ご老齢の身をもってお証しになられたお言葉と拝察される。
また上人の「観音勢至菩薩聖衆現じてまします。おがみたてまつるや」というお言葉に門弟たちは「おがみたてまつらず」と答えたところ、「いよいよ念仏すべし」と念仏をおすすめになっている。阿弥陀仏の来迎とともに観音菩薩・勢至菩薩・聖衆が来現されている姿を拝することのできた上人にとっては、まだ拝することのできない門弟たちは、まだまだ念仏がたりないからであり、そこで「いよいよ念仏すべし」と仰せられたのである。このお言葉は、まだ足りない念仏への精進を身を以て示された御教導であり、あらゆる人びとへのお言葉と受け取るべきではないだろうか。
同日巳の刻(午前十時)、門弟たちが三尺の阿弥陀像を部屋に迎え、病床の右側に安置してから、上人にこのお像が拝めるかどうかを尋ねた。すると上人は空を指しながら「この仏像の他に空にも仏様がまします。拝むことができるかどうか」と仰せになり、ついで次のように言葉を続けられた。
「凡そこの十年ばかり前から今日まで、念仏の功徳を積んだおかげで、極楽の荘厳と阿弥陀仏や菩薩の真身を拝み奉ること常のことでした。しかし今までは誰にもいいませんでした。今は臨終が間近です。だから今になって話すのです」
と。
すなわち上人は十年前からというもの、常に極楽の荘厳をはじめ、仏菩薩の真身を拝まれており、念仏による三昧発得をされていたというべきであろう。だから極楽から来迎される阿弥陀仏の方向(空)を指してお示しになられたのである。
さらに門弟たちは、仏像の御手に五色の糸をかけ、上人にその端を執るように勧めた。
すると上人は、
かようのことは、これつねの人の儀式なり、わが身にをきては、いまだかならずしもしからず(巻三十七)
と仰せられ、五色の糸をお取りにならなかった。それは、普通の人の臨終に行う作法で、直接極楽の荘厳を、来迎の様子を見届けられている上人には必要がなかったからである。
四、一枚起請文
病床にある上人は、手厚い門弟たちの看護の甲斐もなく次第に衰弱され、二十三日にはいよいよ重態になられた。上人の臨終を最も悲しんだのは勢観房源智ではなかっただろうか。十三歳の時から今日まで十八年間、上人を師と仰ぎ父とも慕って給仕してきた。上人もわが子のように慈しみ可愛がられていた。その源智が「念仏を申すうえでの心がまえについて色いろお教えいただき、いちおう心得てはいるものの、なお浄土宗の信仰・念仏の肝要について一筆賜りたく、それをいつまでも形見にしたく存じます」と懇願した。そこで上人は半身をおこし筆をとって一紙にしたため授けられた。これが有名な「一枚起請文」である。
「もろこしわが朝に……」で始まる仮名まじりの三百四十字余りの短文であるが、この短い文章の中に浄土宗の教えがいいつくされている。そして浄土宗ではこれを扇にたとえて“開けば選択本願念仏集、閉ずれば一枚起請文”と教えている。「一枚起請文」の中で、上人は、
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同して、智者のふるまいをせずして、一向に念仏すべし(巻四十五)
と教えられている。念仏の教えを信ずる人は、かりに釈尊ご一代の教えを、よく学びとったとしても、自分はその一文をもわきまえることができない、おろか者と少しも変わらない者であると思い、また、ただ頭を丸めただけで、何ひとつ知らず僧尼としての威儀・作法も具えないでいる無知の者と同じ身であるとわきまえ、決して自分が知者であると見せかけることなく、おごる心を打ち捨て、ただひたすら称名念仏を行ずべきである、と。
この教えは正に浄土宗の真髄を示し諭されたお言葉として、私たち吉水の流れをくむ者は受け取らなければならないのである。
なお、『四十八巻伝』巻四十五の源智上人と「一枚起請文」の項に、次のような話を伝えている。
上人のご病気中の頃、一人の貴婦人が訪ねてきた。折から看病をしていた門弟たちは遠慮して外に出たが、源智は何か御用があればと思い障子の外に侍していた。すると中から婦人との話声が聞えてきた。
「今しばらくと思っていたのに、もしもこのままご往生なさいましたら、お念仏のことは誰にお聞きすればよいのでしょうか」
「私の所存は、選択集に載せておきました。この書に違わず念仏を唱える者こそ、私の教えを後世に伝える者です」
しばらく話し合っていた後、何かいただいたのか、あるいはお教えを受けたのか、その婦人は喜んでお帰りになった。婦人の様子を見ると、ただの人ではない様に思えたので源智は婦人のあとをつけて行ったが、賀茂の辺りで忽然とその姿を見失った。そこで、後刻上人におたずねすると「あれは賀茂の辺りに住む韋提希夫人です」と答えられた。
この話は『四十八巻伝』成立時の伝承で真偽はわからないが、「一枚起請文」の記事に続いてこの話をのせているのは、勿論、源智が上人滅後賀茂に住んだ理由をのべるのが主題だが、『観経』の主人公である韋提希夫人に相当する貴婦人を登場させ、しかも『選択集』は有難いご書物ではあるが、難しく、女性にもわかるようなものを書いて頂きたいという夫人の願いに答えて、何等かの簡単なものがしたためられたか、念仏の要旨をわかりやすく述べられたのではないかと思われる。そのことは、源智の要請によって「一枚起請文」が書かれたこととの関連を無視することはできないように思う。(なお諦忍は『弁断』において末俗付会の説として、婦人の要請による「一枚起請文」授与の説は否定している)
六、上人御往生
病床にある上人は、日々衰弱されていったが、絶えず念仏をとなえ、二十四日の夜中からは、それも高声念仏だった。門弟たち五、六人が交替で上人の念仏にあわせて助音した。「助音は窮屈すといへども、老邁病悩の身をこたり給はず、未曾有の事なり、群集の道俗、感涙をもよほさずという事なし」(巻三十七)ただ念仏一筋に終始してこられた上人のこの様子は、そこに集った人びと道俗の別なく、上人の念仏を聞いて感涙にむせばない者はなかった。
翌二十五日、「念仏の御こえやうやくかすかにして、高声はときどきまじはる」という御容体になられた。まさしくご臨終をお迎えになることになったのである。急を聞いてかけつけた結縁の人びとで大谷の住房は埋まった。上人は頭北面西に横臥されている。今まさにご臨終というとき、上人の伝持しておられた円頓戒の嫡流を示す慈覚大師円仁の九條の袈裟が上人にかけられた。上人は「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の経文をとなえ、眠るがごとく往生された。時に建暦二年(一二一二)正月二十五日午の正中。御年八十歳、お釈迦さまの入滅の歳と同じであった。
音声とどまりてのち、なお唇舌をうごかし給事十余返ばかりなり。面色ことにあざやかに、形容笑めるに似たり。建暦二年正月二十五日の正中なり。春秋八十にみち給。釈尊の入滅におなじ。壽算のひとしきのみにあらず。支干又ともに壬申なり。豈奇特にあらずや。恵燈すでにきえ、仏日また没しぬ。貴賤の哀傷する事、考妣を衷するがごとし(巻三十七)
上人の御往生を記したあと『四十八巻伝』にはこのように書き止められている。
『四十八巻伝』には示寂の数日前に、紫雲がたなびいた瑞相を語っている。すなわち二十日の十時頃、房の上に紫雲が棚引き、中に円形の雲があった。その色は五色で、あたかも絵図で見る仏の円光のようであった。道を往来する人びとは、あちこちで瑞雲の相を仰ぎ見た。門弟たちはこの上に紫雲があるのを見て、上人の往生が近づいたのであろうと話し合った、という。ところが上人は、その瑞相はわたしのためではない。一切衆生に、念仏を申せば必ずこのように往生できるということの確固たる信を得させるためである、と門弟たちに教えられている。また『四十八巻伝』巻三十八には諸人が見た上人往生の霊夢を記しているが、青蓮院に住む慈円は、上人臨終の様子を、
終ニ大谷ト云フ東山ニテ入滅シテケリ。ソレモ往生往生ト云ナシテ、人アツマリケレド サルタシカナル事モナシ(愚管抄)
と記しているように、法然上人の往生は、往生伝や高僧伝にありがちな高僧の臨終のように、奇瑞でもって入滅を飾るより、むしろ瑞相もみられず、神秘的な粧いもなく、おおくの念仏の道俗に惜しまれながら、上人の説かれた口称念仏の合唱の中で、安らかな往生を迎えられたというのが真実であろう。まさに「墨染の聖者」といわれ、生涯を通して金襴や色衣をまとうことのなかった、専修念仏者にふさわしい往生であった。
上人の御遺骸は、南禅院の東の崖の上(現勢至堂の上)におさめられ、そこに墓堂が建てられ、上人の門弟のうち最長老であった信空がお守りすることになった。
上人の波瀾多きご生涯はここに閉じられた。上人の入滅は大勢の人びとにとって大きな悲しみではあったが、しかし上人が遺された専修口称念仏・往生極楽の教えは多くの人びとに受け継がれ、道俗の念仏信者によって諸国へ広まることになったのである。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)