一、鹿ヶ谷事件
法然上人の専修念仏の教えが弘まるにつれて、比叡山や興福寺の弾圧は激しさを増していった。そんな折一つの事件が起こった。法然上人の弟子住蓮・安楽が京都東山の鹿ヶ谷において別時念仏を修し六時礼讃を勤めた。そこにはたくさんの大衆が集まり、その中に御所の女房達もいた。丁度、後鳥羽上皇が熊野行幸中で、その留守に参会し出家してしまった。帰洛してこの話を聞いた後鳥羽上皇は、激怒して住蓮を滋賀県の馬渕で、安楽を鴨川の六条河原でそれぞれ斬首に処すという命を下した。安楽は斬首の時「念仏を数百遍唱えて十念をしてから斬ってほしい。合掌のまま右に倒れたら極楽往生したと思ってほしい」と言い遺してその通りに往生したという。
二、上人の流罪
弾圧は簡単にはおさまらず、弟子達の科は師法然上人にまで及び、建永二年(一二〇七)二月二十八日上人は藤井元彦という俗名で四国へ流刑になることが決まった(建永の法難)。同時に親鸞は越後への流罪となった。この時上人は七十五歳で、弟子達は高齢を心配して、表面上念仏停止を上奏して、遠流を免じてもらうよう法然上人に提案した。
しかし、上人は「流刑をさらにうらみとしてはいけない。なぜなら齢はすでに八十歳にせまっている。たとえ師弟がおなじ都に住しても、娑婆の別離は近い。たとえ山海を隔てるとも、浄土の再会をどうして疑うことだろう。又厭っても存するは人の身である。惜しんでも死ぬのは人の命である。さらに念仏の弘通も京都で年を重ねた。辺鄙に赴いて田夫野人に念仏を勧める事は年来の本意である。しかし、時が至らず素意は未だ果していない。今縁を頂いて年来の本意を遂げることは、すこぶる朝恩ともいうべきである」と述べられ、そしてさらにこうした世間の迫害の強い中にあり乍ら、「我たとえ死刑になるとも、この事を言わないではいられない」と自分の身をもかえりみない、専修念仏弘通にたいする強い情熱と使命感を表された。
一方前年に息子の良経に先立たれていた九条兼実の嘆きは深かった。配流地土佐はあまりに遠すぎると、自分の知行する讃岐に変更することが出来たが、名残り惜しくて法然上人に、「ふりすててゆくはわかれのはしなれど、ふみわたすべきことをしぞとおもふ」と認めた手紙を届けた。上人は御返事に「露の身はここかしこにてきえぬとも、こころはおなじ花のうてなぞ」と応えた。
三、海路での教化
法然上人の舟は瀬戸内に漕ぎ出し、先ず摂津国(兵庫県)の経ヶ島に寄った。ここは平清盛が魚に功徳を施して救うため、一千部の法華経を石の表面に書いて沈めた場所である。次に舟は播磨の国(兵庫県)の高砂の浦に着いた。そこの漁師の老夫婦は、法然上人に「朝夕魚の命を奪って生活しているので、地獄におちるかも知れない。どうしたら救われるでしょうか」と訴えた。上人はそうした生業を続けるものでも、南無阿弥陀仏を唱えれば、本願に乗じて浄土に往生できることを懇ろに説き明した。これを聞いた二人は、涙にむせんで喜び以後念仏に精進した。
法然上人一行はさらに西に向かい、『播磨風土記』に「この泊、風を防ぐこと室のごとし」と記された室の津に到着した。すると、遊女が乗った小舟が一艘近づき「上人の舟とお見うけして参りました。世を渡る手立てはいろいろありますが、どういう罪を犯したものか、このような身の上でございます。この罪業重き身のもの、どうしたら後世の安穏が得られましょうか」と尋ねた。法然上人はこれを哀れんで「確かにこのような業で生活している罪障は軽くはない。もしこのようにして生きなくてもよい仕事があれば、早く今の営みをやめなさい。もし他に生きるすべがなく、又身命をかえりみない程の道心がまだ持てないなら、ただそのままで、もっぱら念仏しなさい。阿弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ弘誓をたてられたのである。ただ深く本願をたのんで、あえて卑下する必要はありません」と悟された。これを聞いた遊女は随喜の涙を流して喜んだ。そしてその後念仏を相続し、正念往生したという。
四、塩飽島でのもてなし
法然上人らは、さらに舟をすすめ、小豆島を過ぎ、現在の岡山県と香川県を結ぶ瀬戸大橋の近くに点在する、塩飽諸島の本島に到着した。そして高階保遠入道西忍の屋敷に落ち着いた。西忍は前夜満月が袂に宿った夢をみたが、これが瑞夢であったことに気づかされた。そして、法然上人に対して手厚いおもてなしをした。上人は請われるままに念仏往生の教えを説き明かし、特に不軽菩薩は、杖で打たれ、石を投げられるような事があっても、常に他人を敬うことを続けた。このように、どのような境遇にあろうとも、人に念仏をすすめるべきである。それが他人の為でなく、ひいては自分の為である」と教えた。西忍はその教えを守ることを誓い、それからは自行化他念仏を専らとした。
五、讃岐の国の子松庄へ
塩飽島から四国に渡った法然上人は、琴比羅宮の象頭山を西に仰ぐ讃岐の子松庄に着き、生福寺に逗留した。そこで法然上人は諸行無常の理を説き、念仏の行をすすめた。法然上人の所へは地元はもとより近国からも、男女貴賤を問わず門前市をなすごとくの人々が法問を聴きに集まった。そして邪見放逸の行いを捨て、あるいは自力難行を改め、念仏に帰依往生を遂げるものが多かった。まことに京都を出立する時、地方の人々の教化に赴けるのは、まさに朝思であると語ったことが現実になっていった。
またこの生福寺の本尊は、阿弥陀一尊であったので、脇士を造り加えることになり、法然上人は勢至菩薩をみずから造り、その讃として「法然の本地は勢至菩薩である。諸々の衆生を救済する為にこの道場に顕れた。私は毎日ここに来て帰依の衆を擁護し、必ず極楽に導いていく、もしこの願いが成しえないならば、永遠に仏にはならない」と書き残した。この自らを明かした文はまことに尊いものである。
また上人は、この国の霊験の地を巡礼し、弘法大師が父佐伯善通の為に建立した善通寺に詣で、そこに、この寺に詣でた人は必ず一仏浄土で会うことができると記されているのを見て、大層喜ばれたことであった。
六、九条兼実の往生
法然上人が子松庄に着いて間もなく、つまり、建永二年(一二〇七)四月五日、『選択本願念仏集』の執筆を懇願した九条兼実が往生を遂げた。五十八年の生涯であった。兼実は臨終を前に、中納言葉室光親を招いて、法然上人と遠く離れてしまったことを嘆き、また上皇の赦免を得させることも出来なかったことを悔み、「自分の死後は光親にその恩赦の懇請を頼みたい」と言い遺した。それを聞いた光親はその真情に涙を禁じ得なかった。
七、赦免と帰洛
九条兼実の願いは、光親によって後鳥羽上皇に幾度となく上申されていたが、なかなか聞き入れられることがなかった。しかし、藤原頼実などの諫めもあり、また新しい最勝四天王院供養の大赦が行なわれることになり、承元元年(一二〇七)十二月八日、洛中への往還は許可されなかったが、畿内での居住が許されることになった。これを聞いた京都の門弟達は喜び、讃岐の人々らは名残り惜しむことしきりであった。まさに喜びと歎きが相半ばしていた。
法然上人は帰路押部(神戸)へ立寄ったが洛中へは戻れないので摂津国の勝尾寺にしばらく居住することになった。この寺は善仲善算の古跡であって、念仏に帰依の深い四代座主証如上人が往生した地である。折から引声念仏を修することがあったが、僧衆の法服があまりに破壊しているのを忍びず、信空に連絡し京都の檀家から装束十五具を調えて贈ったところ、大変に喜ばれた。そして、またこの寺に一切経のないことを聞き、上人の一切経を寄付した。住侶達は随喜して、経題論の開題供養に、京都から聖覚法印の唱導を招請するほどであった。
勝尾寺の滞在も四年になった建暦元年(一二一一)夏、後鳥羽上皇は石清水八幡宮に御幸した際巫女から不吉な託宣を得た。また七月には法然上人の配流を諫める夢を見て、ようやく花洛への帰還を許すこととした。十一月十七日に宣下があり二十日には京に帰ることとなって、勝尾寺では皆が別れを惜しんだ。京都に戻った法然上人は、現在の知恩院勢至堂のところにあった大谷の禅房に落ち着いた。京洛の人々はこれを歓喜し、その夜は千人、そして毎日毎日たくさんの人々が上人のもとへ訪れたという。
八、滅後の法難と遺骸の茶毘
法然上人の往生後も、一向専修念仏停止の勅宣は繰り返された。そして並榎の竪者定照が『弾選択』によって法然上人を非難すると、隆寛律師は『顕選択』を著わし「定照の言っていることは的はずれで、暗夜に石礫を投げるようなものだ」と反論した。事は嘉禄三年(一二二七)隆寛、幸西の流罪にまで発展し、法然上人の廟所も破却に及んだ(嘉禄の法難)。一計を案じた信空ら弟子達は、法然上人の遺骸を嵯峨に移し、さらに現在の太秦西光寺が遺跡とされる広隆寺の来迎房のもとへ安置した。翌安貞二年正月二十五日には、粟生野の幸阿弥陀仏のもと(現在の粟生光明寺)で法然上人の遺骸を茶毘に付した。そして後二尊院の西の岸の上(現在の三帝陵のあたりか?)に雁塔を建て、貞永二年(一二三三)正月二十五日に正信房湛空が遺骨を迎え、ここに納めたという。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)