二、天野四郎の出家

 河内国に天野四郎という強盗の頭目がいた。四郎は人を殺害し、財をかすむるを業として渡世していたが、後年、法然上人の化導に帰して、弟子となり教阿弥陀仏と名乗り、常に上人に近侍して教えを受けていた。

 ある日のこと、上人は夜半近くなるまでおきられて、私かに念仏を唱えておられた。ところが、教阿の咳に気付かれた上人は、床に入って臥し寝入られ、そして夜もあけた。教阿は、不思議に思って尋ねてみようとしたけれども、心の中にとどめておいた。

 それから後、程なくして教阿は上人のもとに参上したが、上人は丁度持仏堂においでになった。教阿は大床に坐して、近々、相模国の知人を頼って下向するので、再び上人に拝眉する機会がないと思うのでと申して、「私はもとより無智の人間ですから、甚深の法門を聞いたところで無益なことです。ただ決定往生疑いなしと一言いただければ、生涯の思い出にしたいものです」と云った。

 これに対して上人は、念仏に甚深の義のないことを説き、念仏は行い易いから申す人は多いが、往生するものの少ないのは、決定往生の故実を知らないからであると。上人はさらに語をついで、

 「御房よ、去る月、誰れもいなくて、御房とただ二人だけであったとき、私は夜半にしのびやかに起きて念仏をしていたのを知っていただろう」

と聞いたところ、教阿は

 「はい。寝耳にそのように聞きました」

上人はさらに語をついで、

 「それこそ決定往生の念仏よ。虚仮とてかざる心にて申す念仏では往生できない。飾る心なくしてまことの心にして申す念仏こそ決定往生できるのです。だから昼夜を問わず念仏を唱えるべきです」

と。

 そして「飾る心」について、次のような譬喩をもって説かれた。

 誠の念仏を申す飾らぬ心とは、あたかも盗人が他人の財物をねらって、さりげない顔をしているのと同じで、かまえて怪しげなる様子を見せないのと同様である。これが飾らぬ心というもので、決定往生を願う心も、またこのようなものである。と、法然上人も仲々人が悪い、教阿が天野四郎という元盗賊の頭目であることを知っての上で、このような譬えでもって、つまり対機説法でもって語られたものであろう。勿論教阿には十分理解できたことである。

 けれども教阿の質問もまた積極的であり真剣であった。そして彼は、「夜半に念仏を申すには必ず起きて唱うべきか。またその時には、念珠や袈裟を着けて申すべきか」と尋ねた。これに対して上人は、本項の冒頭に原文にて掲げた詞の通り、念仏の行は行住坐臥、時と所をきらわず、寝転んでいようが、起きていようが一向にかまわない。念珠や袈裟などの威儀については、その時機の体により従うべきで、所詮、威儀はどうであれ、往生を願って、まことの念仏を申すことが大切である、と説いたのだった。

 このような教えをうけて、教阿は相模国に下向した。『四十八巻伝』巻二〇段一の所収の絵図は、教阿の住んだ相模国河村の寓居で上人の説いた決定往生の義を信じ念仏を欠かさず、端坐して往生を迎えるところを描いたものである。教阿は、往生の様子を必ず上人に報告する様遺言して、高声念仏数十遍となえて命終えたと伝えている。

(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)