一、阿波介の申す念仏

 法然上人の住房のある東山吉水は、いま春の盛りで、桜が咲き、春かすみがかっている。房舎の蔀格子も吊りあげられ妻戸も押し開かれ、部屋の中央の机の前に上人が座わられ、それを取り囲むようにして、高弟の聖光房を始め数人の弟子たちと、平素より上人のお給仕をする狩衣姿の陰陽師の阿波介も座っている。縁側には、今着いたばかりの門弟や、遠方からやって来た出家が、上人の教えにふれようと急いでやって来る。恐らく今日も上人の念仏セミナーが開かれようとしているのである。

 上人は、聖光房に向かって、やおら声をかけられた。

「聖光房よ。そちらに座す阿波介の申す念仏と、私のそれといずれが勝れていると思う

かな」

と尋ねられた。

 聖光房は、師の上人におもねって

 「はい。どうしてお二方の念仏を同じだといえましょうぞ」

と答えた。

 上人は、聖光房に向って、

「聖光房よ。日ごろから浄土の法門を何と聞きおるのか、かの阿波介もみ仏にすがって、

南無阿弥陀仏と唱え、私も同じこと。どうして唱える念仏に差別があろうか」

と諭され、誰の唱える念仏にも優劣がないことを示されたのだった。

 この阿波介は、平常より百八の念珠を二連持って念仏を唱えていたので、不思議に思って、ある人がその理由を尋ねたところ、

「念珠一連でお念仏を申していますと、数が取りにくく、弟子の緒についている珠を上

げ下げして忙がしいので、一連の念珠でもって念仏し、他の一連で数取りをするよう使

い分けをして、緒を休めるようにしているのです」

と語ったのだった。

 これを聞かれた法然上人は、阿波介の才覚に大層感心され、

「阿波介の性格は、あまり賢いとは思わないが、往生の一大事について、大切にしてい

るので、このような工夫を案じるのです。まことに立派なことです」

と誉められたのだった。これが後に浄土宗で日課珠数として用いられる二連珠数の案出の初めである。

 この阿波介の物語は、『法然上人行状絵図』(四十八巻伝)巻十九の二段に描かれているものであるが、この阿波介という人物について若干の注釈をしておく必要があろう。

 陰陽師の阿波介は、その業が陰陽師であるということは、陰陽五行の理に基づき、天文・暦数・上筮、相地などに関することを研究し、陰陽五行・相生相剋の理を推し吉凶を定める一種の技官で、律令の官制では中務省に陰陽寮が設けられ陰陽のことを司どった。しかも彼は「阿波介」という受領名を称しているところからみると、阿波国の国府に出仕して、陰陽を司どった地方官人ではなかったかと思われる。

 ところが、法然上人も「阿波介、きはめて性鈍にその心をろかなれども」と『四十八巻伝』で云われているように、大変な悪人であったようである。

 『法然上人秘伝』(中)によれば、

  阿波介は東大寺の俊乗房重源が念仏結縁のために名号札をくばられた時、七枚の札を七枚の笹と見た者で、放逸邪見にして、人が左と云えば右と云い、右といえば左と云うように、人の心をたぶらかすことが多かったが、家には七珍万宝にみつ富豪長者で、妻妾七人を蓄わえ、その上サデイスチックな人格で、七人の妻妾たちを一日に三度、裸にして七本の柱にくくりつけ、杖にてさいなみ、その泣き声を聞いて、飯を喰い、酒を飲んで楽しんだという変質で乱暴な男であった。

  ある時、阿波介が播磨国へ旅した時、道に迷って三日の行程を七日もかかって到着した。これによって彼は発心し、此の世にてでさえ、道を行くにも先達なしでは道に迷う。まして浄土の路には、善知識の先達なくしてはどうにもならないと思い、法然上人にお頼みしようと、上人の房を訪ねたのであった。彼は居並ぶ上人のお弟子たちを押し分けて居直り、浄土の法門を承わりたいと威丈け高に叫んだので、お弟子たちは恐れおののき静まりかえり、その上阿波介は上人の前につっ立ったので、またもやお弟子たちは色を失ったのだった。そうしたなかで、つと席を立ったのが元関東の御家人の熊谷次郎直実入道で、急いで上人のみもとに立ちはだかり、阿波介に向って、「何で騒がれますのか、法力をたしかめようとされるのか。それとも別の事を確かめようとされるのか」と聞いたところ、阿波介は、百人千人に勝りたる法力は、懐中の刀であると束を強く握っていたが、道理に違ったことをしたと反省し、裏戸の方へまわって髻を押し切ったのだった。そこで上人の剃刀を頂き、直垂を脱ぎ捨て、墨染の袴を着け、出家入道して、法然上人のお弟子に加わり、お給仕するようになったのであった。その後、彼は分をわきまえて、多くのお弟子と同座せず、縁の下に畏んで法門を七日間聴聞し、宿所に帰って一切の財物を七人の妻妾に分け与え、奥州藤原秀衡の建てた光堂の縁において、端坐合掌して念仏百遍ばかりして往生の素懐を遂げたという。また、村人たちが往生人結縁のためにと葬送すれば、骨はみな水精の珠の如くなった。

という。

 この説話を所載する『法然上人秘伝』は隆寛律師の撰述だとしているが、恐らく室町時代中期の作品で、隆寛の名をかりて秘伝と称した偽作であるといわれている。つまり、当時の談義僧用の説話集と解すべきである。従って、法然上人の正伝として取り挙げるのは不適当であるが、参考として掲げておく。

 ただ五行思想に基づく陰陽道は、迷信として片づけるだけでは、当該時代の思潮を理解することはできない。律令国家においては、陰陽寮に所属し、天文暦数を掌るのみならず卜筮や土地を観て吉凶を知る役で、医学の未発達の時代においては、病気などの治療に大きな役割をはたしていた。

 けれども陰陽道の思想は、必ずしも生死の問題や成仏や往生の問題については吉凶卜筮だけで解決できないことであった。陰陽師阿波介は、卜筮によって財をなし、富を得た人物である。富力や傲慢だけでは、往生を期すことができないことを物語るエピソードである。

 要文

 念仏の行は、行住坐臥をきらはぬ事なれば、ふして申さんとも居て申さんとも、心にま

かせ時によるべし。念珠をとり袈裟をかくる事も又折により体にしたがふべし。

(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)