一、偏依善導
ひとえに善導一師によるとされた法然上人にとって、善導大師に直接することは大きな願いであったとみる事ができる。そうした思い、態度が夢中対面となったことは容易に推察する事ができる。しかし法然上人の夢中体験を現代風に個人的無意識の表れとのレベルでのみ理解するのは短絡にすぎる。なによりも学問と善導大師への渇仰とそして口称念仏の相続・実践による不求自得の結果としての二祖対面であったことに留意したい。その意味では、二祖対面は法然上人の宗教体験の精華であった。この体験は主として二つの重要な結果を生み出したことを諸伝記は語っている。
一つは専修念仏を人々に勧める伝道の決意をした事にある。『四十八巻伝』では「しかれハ 上人の勧進によりて 稱名念仏を信し 往生をとくるもの 一州にみち 四海にあまねし」と書かれる。また他の伝記にも二祖対面は法然上人にとって専修念仏による自己の救済の決定を確かなものとしただけでなく、それ以上にこの教えを人々に勧めること、つまり伝道の決意をうながしたことを載せている。『古徳伝』では「但自身の往生はすてに決定し竟ぬ他のために此法を弘通せんと思給に 若佛意に合哉否 心勞の夜 夢に見らく」とあり、同様の記述は『私日記』、『醍醐本』『弘願本』『九巻伝』、『十六門記』などに見えている。
もう一つは法然上人の専修念仏は善導大師から受け継がれたという仏教伝統における師資相承・面授口訣の系譜を明らかにした事である。
二、二祖対面の時期
法然上人が二祖対面の夢を何時見られたかについてはかならずしも明確ではない。『四十八巻伝』では「ある夜夢みらく」とあるだけであり、他の伝記でも明確ではない。現在では主として承安五年(一一七五)三月十四日、四十三歳の時(『知恩伝・十巻伝二』)、また建久九年(一一九八)五月一日、六十六歳の時と見なされている。
ただ四十三歳説、六十六歳説のいずれもが大きな転回点であったことは良く知られる。
三学非器という自己凝視による救済の仏教を求めた法然上人は、四十三歳のとき善導大師の『観経疏』散善義の「一心専念弥陀名号」の文によって凡夫往生の確証を得、「たゞ善導の遺教を信ずるのみにあらず またあつく弥陀の弘願に順ぜり 順彼仏願故の文ふかく魂にそみ 心にとゞめたるなり」と善導大師への渇仰とともに阿弥陀仏への信を確定したのである。そして「立ちどころに余行を捨てて、ここに念仏に帰す」として浄土宗を開宗された年である。それとともに黒谷を離れて当初は西山の広谷に、ついで東山の吉水に房を移されて伝道に入られたのである。
したがって四十三歳説は浄土宗開宗と伝道に関係させた宗教体験としてとらえている。
他方、六十六歳説は『選択集』の撰述が行われ、また三昧発得された年でもある。また前年の建久八年から病気に襲われ、同九年二月には再び発病され、四月には『没後遺誡文』が書かれている。そうした肉体的危機が原因となってか、別時念仏をしきりに行っている。
竹中信常博士の集計によれば、まず建久九年正月一日より草庵にこもり、念仏三昧に入られたのを最初にこの年だけで十二回を実践されている。時期でみれば正月・二月に集中している。その結果というべきか、三昧発得を体験される。
『四十八巻伝』によれば、「正月七日の別時のあいた まつ明相あらわれ 次に水相影現し のちに瑠璃の地 少しき現前す 同二月に宝地 宝池 宝樓を見たまふ…」とある。他の伝記では正月一日に明相が表れ、水想観、地想観とすすめられた。二月に入ると瑠璃地がはっきりと現れ、さらに宮殿が現れたと記している。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)