ここでは、開宗をめぐる法然上人のお心と行動について「開宗の年」と「付属の文」の二点に絞って述べてみたい。
一、開宗の年
まず開宗の年について一言する。冒頭の要文に「これによりて承安五年の春、生年四十三たちどころに余行をすてて、一向に念仏に帰し給ひにけり」とあることなどから、浄土開宗は承安五年(一一七五)の春とされる。ところが、法然上人の浄土開宗の年は、諸伝記や諸資料によってまちまちである。例えば、
●三十三歳説〜『私聚百因縁集』
●四十二歳説〜『法然聖人絵(弘願本)』『拾遺古徳伝(但し本書には「承安五年甲午の
春、行年四二」とある。承安五年であれば四十三歳ではあるが、甲午であれば四十二
歳となる。法伝全五九八頁)』『獅子伏象論』『元亨釈書』
●四十三歳説〜『源空聖人私日記』『本朝祖師伝記絵詞(四巻伝)』『法然上人伝絵詞(琳
阿本)』『法然上人伝記(九巻伝)』『黒谷源空上人伝(十六門記)』『勅伝』
●六十六歳説〜『浄土法門源流章』
●七十四歳説〜『愚管抄』
などであり、先学による所説も様々である。けれども、元久元年に法然上人ご自身が門弟を誡められた『七箇条起請文』に、
年来ノ間、念仏ヲ修スト雖モ、聖教ニ随順シテ、敢テ人心ニ逆ラワズ、世ノ聴ヲ驚カ
スコト無シ。茲レニ因テ今ニ至ルマデ三十箇年、無為ニシテ日月ヲ渉ル(昭法全七八
九頁)
とあり、元久元年から三十年前は正しく承安五年にあたる。さらには、開宗の意味について香月乗光師は、
浄土開宗はその本来の意味において、畢竟法然の信仰の獲得、精神の開眼に基づくの
であって、これをさし措いて他のどのような行実をとりあげても、開宗の事実は出て
こない(「法然上人の浄土開宗の年時に関する諸説とその批判」『法然浄土教の思想と
歴史』二〇七頁)
と適切な指摘を施されている。今、こうした法然上人のご遺文や先学のご指摘によるならば、これまで縷々述べてきたような開宗の御文によって法然上人ご自身が浄土往生の確信を得られ「余行をすてて、一向に念仏に帰」せられた「承安五年の春、生年四十三」歳こそ、正しく開宗の年とすべきであろう。
なお承安五年と同年である安元元年と伝える諸伝記もある(『源空聖人私日記』『四巻伝』『琳阿本』)が、七月二十八日に安元への改元がなされたことから「承安五年の春」で差し支えないであろう。
二、付属の文
次に、開宗の御文を『観経疏』付属の文とする次のような逸話についても一言したい。
問フテ云ハク、誠ナルヤ、浄土宗ヲ立テ給フ。答ヘテ云ハク、然ナリ。又問フテ云ハ
ク、何レノ文ニ付キテ之ヲ立テ給フヤ。答ヘテ云ハク、善導ノ観経疏ノ付属ノ釈ニ就
キテ之ヲ立ツルナリ(『一期物語』昭法全四四六頁、『四十八巻伝』にも同様の文あり)
ここで法然上人は、浄土開宗を付属の文によってなされたと語られている。付属の文とは次の一節である。
上来、定散両門ノ益ヲ説キタマフト雖モ仏ノ本願ニ望ムレバ、意、衆生ヲシテ一向ニ
専ラ弥陀仏ノ名ヲ称セシムルニ在リ(筆者試訳〜これまで釈尊は定善と散善の二つの
教えの利益について説かれてきたが、阿弥陀仏の本願を推し量るに、釈尊の御心は、
あらゆる衆生にただひたすら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあった。浄全二巻七
一頁下)
望仏本願の文とも呼ばれるこの文は『選択集』第十二章の引文ともなっている実に貴重な一節である。ただ、先の一心専念の文と異なり、この文は釈尊が主格となっていることに留意しなければならない。つまりこの文は、他の諸々の諸行を閣いて本願念仏を専らにすべきことこそ釈尊の本懐なのだ、と明かされた一節なのである。法然上人も、
されば念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐也(『津戸三郎へつかはす御
返事』昭法全五七二頁)
と語られている。先の一心専念の文によってご自身の浄土往生への確信を得られた法然上人ではあるが、次に釈尊にはじまる一代仏教中に本願念仏をいかに位置づけるかに思いを馳せたことであろう。そこで、他宗に対して法然上人は、釈尊の本懐を明かしたこの望仏本願の文を依り所として浄土開宗を宣言されたのである。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)