(2) 略史

 法然上人による浄土開宗の略史について「開宗前史」「開宗の御文」「開宗の意義」の三点から述べてみたい。

 一、開宗前史

 法然上人は、非業の死を遂げられたお父上の菩提を弔いつつ、お母上、さらには巷で悩み苦しむすべての人々が救われる道を求めて比叡山に登嶺し、仏道修行に邁進された。法然上人当時の仏道修行は次のお言葉に集約されよう。

およそ仏教おほしといへども、詮ずるところ戒定慧の三学をばすぎず(『聖光上人伝説の詞』昭和新修法然上人全集(以下、昭法全)四五九頁、『四十八巻伝』にも同様の文あり)

すなわち、戒(戒律を守る)・定(心の散乱を静めた禅定の境地に至る)・慧(差別相を越えた智慧を獲得する)の三学を究め尽くし、仏性を開花させ、この身このままで悟りを開くことこそ究極の目的であった。法然上人のご修学の姿勢は、

 一切経を披覧すること、五遍なりし〜われ聖教を見ざる日なし、木曽の冠者、花洛に

 乱入のとき、ただ一日聖教をみざりき(『四十八巻伝』法然上人伝全集〈以下法伝全〉

 二二〜二三頁)

あるいは、

  抑モ貧道、山修山学ノ昔ヨリ五十年ノ間、広ク諸宗ノ章疏ヲ披閲シテ、叡岳ニ無キ所

  ノモノハ、之ヲ他門ニ尋ネテ、必ズ一見ヲ遂グ。鑚仰年積リテ聖教殆ド尽ス(『北陸道

  ニ遣ハス書状』昭法全八〇二頁)

とあるように、たいへん厳しくかつ真摯な日々であり、ひたすら一切経と諸宗の論疏の修学に明け暮れられた。そんな法然上人をして人々は、

  智慧第一(『四十八巻伝』法伝全二〇頁など)

と讃えられた。しかし、その法然上人が次のようなご述懐を残されている。

  しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禅定において一もこれをえ

  ず、智慧において断惑証果の正智をえず〜又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、

  たとふるにさるのごとし、ま事に散乱してうごきやすく、一心しづまりがたし〜かな

  しきかなかなしきかな、いかがせんいかがせん。ここにわがごときは、すでに戒定慧

  の三学のうつは物にあらず、この三学のほかにわが心に相応する法門ありや。わが身

  にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらひしに、

  おしふる人もなく、しめすともがらもなし(前掲『聖光上人伝説の詞』)

 法然上人当時の仏道修行、すなわち聖道門の教えは「智慧第一」の法然上人をしてもその成就がおぼつかない、理論が先行し人々のありのままの姿を見失った教えに他ならなかった。つまり、たとえ悟りへの道が種々用意されていようとも、煩悩具足のわが身であるという宗教的内省を真になし得た時、その道をまっとうし得る者などただの一人としていなかったのである。

 こうした深い内省の結果、法然上人は名聞利養を捨てて黒谷に隠遁し、次のようにご述懐されている。

  是ノ故ニ往生要集ヲ先達ト為テ、浄土門ニ入ルナリ(『一期物語』昭法全四三七頁)

 このように法然上人は、恵心僧都の『往生要集』に導かれて、すべての人々が救われる道、浄土教へと帰入された。『往生要集』は、浄土往生の教行こそが、濁世の衆生を導く目足であると明かした書であり、そこにはすでに浄土往生の実践行としてお念仏の教えが説かれていた。しかし、そのお念仏はいわゆる観勝称劣、つまり禅定を通じての観想念仏に高い価値がおかれ、称名念仏は劣った行と規定され、難行である観想念仏に力及ばぬ者は易行である称名念仏に心を運ぶよう勧めているに過ぎなかった。『往生要集』のこうした教説は、当時の仏教界では至極当然の立場であり、開宗なさるまでの法然上人もこうした立場におられたことであろう。もちろん、法然上人ご自身でさえ「禅定において一もこれをえず」と語られているように、濁世の衆生を導く目足であるはずの観想念仏もまた誰しもが成し得る行では到底なかったのである。

 ところが法然上人は、『往生要集』を読み進めていくうちに実に重要な点にお気づきになる。それは、浄土往生、つまり法然上人の願いであるすべての人々が救われるという確証が、恵心僧都ご自身の言葉ではなく善導大師の釈文に依っていることであった。冒頭の要文をはじめ、その辺りのご心境について法然上人は、

  恵心理ヲ尽シテ往生ノ得否ヲ定ムルニハ、善導和尚ノ専修雑行ノ文ヲ以テ指南ト為シ

  タマフ(『往生要集料簡』昭法全一四頁、『往生要集略料簡』などにも同様の文あり)

あるいは、

  但シ百即百生ノ行相ニ於テハ己ニ道綽善導ノ釈ニ譲リテ、委シク之ヲ述ベズ(『一期物

  語』昭法全四三七頁)

などと語られている。この善導大師の釈は、

  若シ能ク上ノ如ク念念相続シ畢命ヲ期ト為ス者ハ、十ハ即チ十生ジ、百ハ即チ百生ズ

  (浄全四巻三五六頁下)

との『往生礼讃』の一節である。法然上人は「百即百生」と浄土往生への確信を吐露された善導大師に強く惹きつけられ、次のようにお示しになられるのであった。

  然レバ則チ恵心ヲ用インノ輩ハ、必ズ善導ニ帰ス可シ(『往生要集料簡』昭法全一四頁、

  『往生要集略料簡』などにも同様の文あり)

 こうして法然上人のご関心は、恵心僧都から善導大師へと移り、そのご著書を探し求め、味読されることとなる。

 二、開宗の御文

 一切経を繙くたびに法然上人は、善導大師の『観経疏』を拝読されていたことであろう。しかし、その日は突然に、けれども求道者法然上人をして必然的に訪れる。冒頭の要文のごとく、善導大師の主著『観経疏』をとりわけ懇切に拝読すること三遍、ついに法然上人は散善義深心釈の次の一節に至った。

  一心ニ専ラ弥陀ノ名号ヲ念ジテ行住坐臥ニ時節ノ久近ヲ問ハズ、念念ニ捨テザル者、

  是ヲ正定ノ業ト名ヅク。彼ノ仏ノ願ニ順ズルガ故ニ(浄全二巻五八頁下)

(筆者試訳〜心をこめてただひたすらに「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名号を称え、歩い

ていても止まっていても、座っていても横になっていても、時間の長短を問うことなく、

怠らずに続ける、これをまさしく阿弥陀仏が往生行として選定され、我々凡夫の浄土往

生が決定する行、すなわち正定の業と名付ける。何故なら阿弥陀仏が往生行として誓わ

れた本願に順じているからである。)

 法然上人をしてご自身の浄土往生が叶えられるという確信を得られたのがこの一文であり、末尾の「順彼仏願故(彼ノ仏ノ願ニ順ズルガ故ニ)」というわずか五文字に上人はその道理を見いだされた。つまり法然上人は、誰にでも易いお念仏でさえも、いや何よりも易いからこそ阿弥陀仏が本願往生行としてお選びになり、他のいかなる行にも増して尊い功徳を込めるべく兆載永劫のご修行をお積みいただいたのだ、だからこそ私たちが称えるお念仏の因と阿弥陀仏の不可思議なる本願力の縁とが和合し浄土往生が叶えられるのだ、という道理の確信を得たのである。

 この一心専念の文について二祖聖光上人は、

  (法然)上人ノ曰ク此ノ文ヲ見得テノ後、年来所修ノ雑行ヲ捨テテ一向専修ノ身ト成

  リキ(『末代念仏授手印』浄全十巻二頁下)

と語られ、あるいは『勅伝』をはじめとする多くの伝記も、この文によって法然上人が専修念仏一行の人となられたことを語っている。わが浄土宗でこの文を「開宗の御文」として尊く頂戴する所以である。

 三、開宗の意義

 ところで、法然上人によって開宗された浄土宗は、これまでの仏教各宗派とどのように異なるのだろうか。法然上人による次のようなご法語が伝わっている。

  我、今浄土宗を立る意趣は、凡夫の往生を示さんが為也。若し天台の教相によれば、

  凡夫往生をゆるすに似たりといへども、浄土を判ずる事至て浅薄也。若し法相の教相

  によれば、浄土を判ずる事甚深也といへども、全く凡夫往生をゆるさず。諸宗門の所

  談異也といへども、惣て凡夫報土に生ずと云ふ事をゆるさず。故に善導の釈義に依て

  浄土宗を興する時、即ち凡夫報土に生るといふこと顕るる也。(『浄土立宗の御詞』昭

  法全四八一頁、『一期物語』にも同様の文あり)

 つまり、兆載永劫のご修行の末に阿弥陀仏によって建立されたこの上のない浄土(報土)に、輪廻を繰り返してきた煩悩具足の私たち凡夫の往生が叶う道理を明かすことができるのは、他ならぬ善導大師の教えに基づいて浄土宗を開宗する以外にないと語られている。ここにこそ法然上人による浄土開宗の尊い意義を見い出さねばならない。極悪底下の凡夫が、最易なるお念仏によって、極善最上の極楽浄土への往生が約束されるというとてつもない意義である。

 法然上人による浄土開宗は、凡夫から仏への主人公の転換であり、仏教のあり方を根本から問い直すものであった。

 これまでの仏教各宗派は、経典に説かれている教えを、僧侶が自己の判断で優劣を定め随意に選びとっていたに過ぎず、その教えを選ぶ主体は煩悩を断じ得ない人間の側であった。けれども法然上人は、多くの人々から「智慧第一」と讃えられながらも、煩悩を断絶し難い自己のありのままの姿をしっかりと見つめられ、私たち凡夫が修すべき行の選び取り(選択)の主体を阿弥陀仏という仏の側へと転換・昇華されたのである。それは実に画期的なことであった。

 『往生要集』の観勝称劣という教説は、当時の仏教界では至極当然の立場であり、開宗なさるまでの法然上人もまたこうした立場におられたであろうことは先述した。言ってみればこうした立場は、「難しいものが素晴らしい」という私たち凡夫の常識(機辺)に基づいた行の価値判断(難=勝、易=劣)である。しかし、開宗の御文に出会い、阿弥陀仏の大慈悲に触れられた法然上人は「すべての衆生が救われることこそ素晴らしい」という仏の常識(仏辺)に基づく行の価値判断(易=勝、難=劣)へと視点を百八十度転換された。勝易念仏の成立である。(もちろん、法然上人のこうした確信が「選択本願念仏」「勝易念仏」として『選択集』において体系化されるまでにはしばらくの年月を必要とする)

冒頭の要文の他、法然上人は次のようにも語られている。

  善導ノ釈ニ於テ二反、之ヲ見ルニ往生ハ難シト思ヘリ。第三反ノ度、乱想ノ凡夫、称

  名ノ行ニ依テ、往生ス可キノ道理ヲ得タリ(『一期物語』昭法全四三七頁)

 開宗の御文によって浄土往生への確信を持たれるまでに法然上人は『観経疏』を三返繙いたと示されている。こうした経緯も、善導大師ひいては法然上人の説かれる浄土宗の救いの論理そのものが、当時の仏教界の視点を遙かに超越した教えであったからに他ならない。ここにこれまでの仏教界の常識が覆され、悟り(智慧)の仏教を超えた救い(慈悲)の仏教が成立し、誰でもが救われるお念仏の教えが開花したのである。

 こうして法然上人は「たちどころに余行を捨てて、一向に念仏に帰」せられ、比叡の山を降り西山の広谷、さらには吉水へと住まいを移し、すべての人々が救われるお念仏の教えを説き広められるのである。時に承安五年の春、御年四十三歳であった。

 承安五年は、法然上人が十八歳で黒谷に隠遁されてから二十五年、十三歳の比叡山登嶺から三十年、九歳のお父上夜討ち、菩提寺入山から三十四年もの歳月が流れていた。こうした法然上人の血の滲むような長いご修学ご研鑽の末、阿弥陀仏の本願力にお縋りするお念仏の教えが開眼され、浄土開宗がなされるのである。

(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)