(3) 上人のお心と行動

 法然上人は叡空上人に会って、自分は幼時の昔から成人した今日に至るまで父の遺言を片時も忘れたことがないので、いつまでも隠遁したいという気持ちが深いことを述べた。この話を聞いて叡空上人は、幼少の頃から早くも欲望の世界から離れようとする志を起こしたのは法然道理の聖、いうならば教えられなくとも正しい道理を自ら体得している自然の聖であるとして喜んで、法然房と名のらせた。そして名前は前の師であった源光の上の字と叡空の下の字を一字ずつとって源空と名付けたのである。これが法然房源空という名前の由来である。

 法然上人は黒谷に引き籠ってから後は、名声と栄達を求める心を全く捨て去り、ただ生き死にに明けくれる迷いの世界から離れる道を切実に求めた。どのようにしたら迷いの世界から離れることができる道があるかを究めたいと願って一切経を繰り返し読み、天台宗ばかりでなく、他宗の註釈書に至るまでくまなく読破しない書籍はなかった。生まれもった天性の智慧と理解力で、それぞれの教義の深奥を究めることができたのである。

 これは後年法然上人が述懐されたお言葉だが、「私は聖教を見なかった日はない、ただ一日木曽の冠者源義仲が京都に乱入した時は聖教を見なかった」と述べられている。木曽義仲の京都乱入は寿永二年(一一八三)七月二十八日の出来事であり、法然上人五十一歳の時である。『四十八巻伝』第五にこの言葉は収められている。おそらく法然上人の真剣な求道生活を物語るエピソードとして挿入されたものであろう。

 次に法然上人が叡山の黒谷の叡空上人のもとで修行中のエピソードを二つ紹介してみたい。

 あるときのこと、天台大師の真意を談じあって円頓戒の戒の本体である戒体とは何かという議論になった。師の叡空上人は心法すなわち心が戒体であるとしたのであるが、師の説に対して法然上人は色法すなわち生まれつきのままの身体こそ戒体であると主張して譲らなかった。双方とも自説を主張して議論するばかりで時間はたつばかり。このためについに叡空上人は腹をたてて木枕を投げつけた。法然上人もまた憤然として自室に戻ってしまう。叡空はその後しばらく考えていたが、法然上人の部屋をたずね、「あなたの申されたことは、よく考えてみると、天台大師の真意で円頓戒の極意です」と申された。師である叡空上人がわざわざ法然上人の部屋にまで行って自説を訂正したことは、仏法を論ずるのに私心をもたない奥ゆかしい態度である。

 このことがあった後の叡空上人は法然上人を模範とするようになり、師匠がかえって弟子となったといわれている。

 これは法然上人が浄土宗を開かれて二、三年後のこと。久しぶりに黒谷の叡空上人のもとを訪ねられた法然上人は、「極楽往生を願う行には、念仏より勝れた行はありません」といわれた。すると叡空上人は仏のお姿を心に思い浮かべ考える観仏の方が念仏より勝れているといわれたので、法然上人は重ねて「声をだして念仏をとなえることは本願の行ですから、最も勝れています」と主張された。それでも叡空上人は「先師の良忍上人も同じく観仏が勝れているといっておられた」というので、法然上人が「良忍上人は確かに先に生まれたということだけではありませんか」といいかけると、叡空上人はまたしても立腹してしまった。しかし法然上人は「善導大師は『観経疏』の中で、心をこらした観念の念仏に対し平素の念仏をお説きになりましたが、仏の本願からいってひたすら阿弥陀仏のみ名をとなえる称名をおすすめになりました。このことからしても、念仏が最も勝れた行であることは明らかです。経典や釈文をよくよく御覧下さいますように」といわれた。

 これらのエピソードをみると、「仏法には私なき」とはいえ、師の前で自説を披瀝して譲らなかった法然上人の態度のなかに、人間法然の姿を垣間見た思いがする。

(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)