一、比叡登山
いよいよ比叡山に登るについて、観覚は幼い法然上人を比叡山西塔の北谷の持宝房源光のもとに送ることにした。そして持たせた手紙には「大聖文殊菩薩の像一体を進上します」と書き入れている。これは法然上人を智恵の文殊といわれるのにふさわしい明晰な頭脳の持ち主として紹介しているのである。なおこの年次について、伝記によって天養二年(一一四五)法然上人十三歳説と久安三年(一一四七)十五歳説とがある。『四十八巻伝』は十五歳説をとっている。
源光上人はまず、天台大師の『四教義』を読ませたところ、法然上人が疑問とするところは、いずれも古くから天台の学僧たちが、議論を戦わせてきたところばかりであった。そこで、源光上人は自分の力量に余る優秀な少年なので、もっと学識の高い学僧につける方がこの少年のためであると考え、東塔西谷の功徳院に住していた皇円阿闍梨のところへ、法然上人を連れて行った。
二、出家受戒
皇円阿闍梨は、当時の代表的な歴史書である『扶桑略記』三十巻の著者として知られている。また関白藤原道兼の四世の孫重兼の子であり、後年法然上人の弟子となる長楽寺多念義隆寛の伯父にもあたる学僧である。家柄もよく、宗内でも天台慧心の嫡流たる椙生流の開祖皇覚法橋の弟子であり、当時の比叡山における一流の学僧であった。この皇円阿闍梨のもとで、法然上人は久安三年十一月八日、黒髪を切り落として、墨染の法衣をまとい、東塔の大乗戒壇院において、大乗の戒律を授かり、出家受戒の本懐を遂げられた。そしてこの皇円阿闍梨のもとで、法然上人は天台宗の根本論疏である「天台三大部」、すなわち天台大師智料述した『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』各十巻と、その注釈書であり、湛然の選述した『文句記』『釈籤』『輔行伝弘決』各十巻の計六十巻を学び、天台の教学について、基礎から本格的に修学をはじめられた。
三、黒谷遁世
天台三大部を読破した法然上人は、その秀でた学識を認められ、師匠の皇円阿闍梨から「学問の道につとめ、立派に成就させて天台宗の棟梁になってほしい」と願われた。しかし、法然上人は承諾されず、逆に名聞利養をきらい、深く隠遁したい旨希望を述べられた。そして、久安六年皇円阿闍梨のもとを辞して、西塔黒谷の慈眼房叡空上人の室に入られる。法然上人十八歳のときである。
法然上人にあった叡空上人は、少年の身で早くも世間を離れる心をおこして、まことにこれは法然道理の聖なりと感心して、法然房という房号を与え、比叡山の最初の師である源光の源と、叡空の空をとり、源空と名乗るように定めたといわれている。この叡空上人は大原の良忍上人から付属された正式な円頓戒の相承者であり、また叡空上人の前の師である功徳院の皇円阿闍梨同様、梶井門跡系の流れを汲む派に属していたようである。
当時の比叡山は、梶井門跡と、青蓮院門跡の二系統の流れをもつ僧によって、天台座主が占められていた。当然その流れにあり、その法系に連なっていなければ、たとえ学徳がすぐれていても、高位顕職は望めず、また大衆といわれる多くの僧侶達も、争いや武力行為におよぶなど、法然上人にとっては、どちらにも留まりがたい状況を呈していた。それに対して、黒谷は比叡山のなかでも別所と呼ばれ、大衆達と離れた閑静な場所で、聖と称される僧達が、思い思いに思索にふけったり、きびしい修行を重ねる場所である。したがって教団のなかでの出世や栄華とは一線を画する、仏道に打ちこむには絶好の環境にあったのである。
『四十八巻伝』などには記されていないが、当時の黒谷は、隠遁の地であり、二十五三昧会の行われている場所でもあった。二十五三昧会というのは、同じ比叡山のなかの横川の首楞厳院を中心に活動していた念仏結社で、寛和元年(九八五)に作られた源信の『往生要集』の影響をうけ、翌二年五月に、この首楞厳院の住僧二十五人を根本結集として発足した。毎月十五日に念仏三昧をして往生極楽を願い、追善行事なども行った。すなわち、黒谷には、源信の『往生要集』の思想を底流にもつ念仏の輪が広がっていたものと思われる。
黒谷に隠遁されたことが後の法然上人に大きな影響を与えることになる。
あるとき、叡空上人と法然上人が天台大師の真意を談じあって円頓戒の本体である戒体とは何かという議論になった。師の叡空上人は心法、すなわち心が戒体であるとしたが、師の説に対して法然上人は色法、すなわち生まれつきのままの身体こそ戒体であると主張して譲らなかった。このため叡空上人は腹をたてて木枕を投げつけた。法然上人もまた憤然として座を立って自室に戻ってしまう。叡空上人はその後しばらく考えていたが、法然上人の部屋をたずねて、「あなたの申されたことは、よく考えてみると、天台大師の真意で、円頓戒の極意です」と自説を訂正されている。
このように法然上人は黒谷に引き籠ってから後は、名声と栄達を求める心を全く捨て去り、ただ生き死にに明けくれる迷いの世界から離れる道を切実に求められた。どのようにしたら迷いの世界から離れることのできる道があるかを究めたいと願って一切経を繰り返し読み、天台宗ばかりでなく、他宗の註釈書に至るまでくまなく読破しない書籍はなかった。生まれもった天性の智慧と理解力で、それぞれの教義の深奥を究めることができたのである。
しかし、知識は深まっていったものの、法然上人の黒谷の隠遁の求道生活がめざしたものは、現に苦悩し、救済を求める衆生に、誰でもが救われる道をさし示すことであり、めざす真の仏の教えを探りかねていたのである。
四、参籠
保元元年(一一五六)、二十四歳のとき、法然上人は叡空上人にしばらくの間の暇を請い、黒谷を出て嵯峨の釈迦堂に赴いた。
栖霞寺の釈迦堂に、東大寺のち海寛和三年(九八七)に宋から請来した三国伝来といわれた釈■像が安置され、五台山清凉寺として発展したこの寺に、法然上人は七日七夜の参籠を試みた。この清凉寺はとくに庶民の信仰を集め、あらゆる階層の人びとの、救いを求めるエネルギーを感じさせる場所でもあった。おそらく法然上人は、隠■の学究的生活では知りえない、生身の人間の往生浄土に対する真剣な祈りを感じ、何人をも救う仏教の道理の発見に意欲を燃やされたことであろう。
五、南都遊学
釈迦堂での参籠をおえた法然上人はただちに、北嶺(比叡山)とともに当時の仏教界を二分していた南都(奈良)に行き多くの学匠をたずねた。
まず法相宗の碩学であり、因明の大家として知られていた蔵俊僧都を訪ねて、法相宗に対する不審を質したが、蔵俊は返答できなかったといわれている。
ついで法然上人は同門の阿性房印西とともに、醍醐寺に三論の学匠である権律師寛雅を訪ね、さらに御室の仁和寺に東大寺良寛の弟子で華厳学の学匠であった慶雅法橋をたずねて、必死に道を求めた。
法然上人の諸宗教義に関する知識は、いずれも諸宗の書籍を通して得られたものだったが、法然上人に出会った学匠達は、いずれもその深い学識に感嘆するばかりであったと伝えられている。
なかでも蔵俊は「貴房はただ人にあらず。おそらく大権の化現歟」と法然上人を讃え、一生涯の間供養物を献上することを約束したという。また三論宗の寛雅は、自分には三論宗の法門を授けるに足る者がいないが、法然上人は三論の法門の奥義に達しているので、これまで秘蔵してきた書物を受けとって欲しいと、法然上人に書籍を託したといわれている。華厳宗の慶雅は臨終を迎えた時に法然上人を招請して円頓戒を受けて弟子となったと伝えられている。さらに法然上人は当時真言律の第一人者中川の実範から法流の伝授をうけたが、逆にのちに実範は法然上人に弟子の礼をとったと伝えられている。法然上人の伝記はこれらの四師が法然上人の学識の深さに感嘆して、みな法然上人を師とするようになったことを伝えている。
諸宗の学匠を歴訪して得たものは、法然上人の諸宗の理解が正しかったことが結果的には証明されたものの、すなわち、「智慧第一の法然房」と讃えられることはあっても、誰一人として法然上人の問いかけに心ゆくまで教えをたれ、かつ、法然上人の求道に感動を与えるような回答をなにひとつ与えずじまいで、残ったものは期待を裏切られたむなしさだけであった。失意のうちに重い足を引きずりながら再び黒谷に戻ってくるのである。
しかし、『勅伝』などには直接記されていないが、南都を遊学した法然上人は、南都には源信を代表とする天台浄土教とは別に、浄土教の流れをつくる学僧達がいることを知られたと思われる。禅林寺の永観は『往生拾因』一巻を著し、また東大寺の珍海は『決定往生集』一巻を撰して、観念的称名を説いていた。
これらの南都の浄土教において、とくに重要なことは、唐の善導大師の『観経疏』を教理の根本に置いていたことである。このように南都において、それまで法然上人が閲読することができなかった善導大師の『観経疏』に、はじめて出会うことができたことである。このことが後の法然上人に大きな転機を与えることになる。
(平成11年度 浄土宗布教・教化指針より)